俺はHELLO WORLDをハッピーエンドと認めない

追記(2019年10月31日)

その後もあれこれと調べた結果このnoteに長々と記述した考察は完全に的外れだったことが判明しました。
このことを踏まえたうえでお読みください。

いやしかしそう上手くいくもんではないですね……。

本編

上記は映画「HELLO WORLD」を観た直後の私のツイートです。

これにある通り、この映画があまりにも残酷な、ハッピーエンドとは程遠い終わり方に思えたのでその理由を書いていきます。
がっつりネタバレあり、というか映画を観た前提で話を端折りまくっている箇所もあるのであくまでも「既に映画を観た人だけが本稿を読む」ことを推奨します……というか観てないと何のこっちゃ分からない内容だと思います。
まだ観てない人は早く観なさい。
もうちょっとで公開終了する気配が漂っているので。
あと本稿はめちゃくちゃ長いです。

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本題

HELLO WORLDの概要……に関してはダラダラここに書いても仕方がないのでWikipediaを見てください。
私の数億倍は綺麗にまとめてくれています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/HELLO_WORLD_(%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1%E6%98%A0%E7%94%BB)

閑話休題。
つまり、この映画は主人公の堅書直実とヒロインの一行瑠璃が暮らしている世界A世界Aをアルタナ内のデータとして記録している世界B世界Bでアルタナの自動修復システムを強制シャットダウンしたことで引き起こされた「ビッグバン」によって新しく生まれた世界C④現実世界の4つの世界を舞台にした多重構造的な物語なわけです。
世界Aと世界Bで「世界Aの一行瑠璃」を助けようと奔走した「世界Aの堅書直実」が、助け出した瑠璃と一緒にまったく新しい世界Cに辿り着くことでタイトルの回収を行っているわけです。
全ての冒険を終えて現実世界に帰ってきた、という意味でもあるかもしれません。
物語は一見すると素晴らしくハッピーエンドです。
現実世界でナオミとルリは無事に再会を果たしたわけですし。
でも、実際のところこの映画の結末は諸手をあげて万歳三唱できるようなものではありません。
どうしても見逃せない伏線があるからです。

なぜハッピーエンドとは考えられないのか?

作中、世界Bにおける堅書直実本人である先生の口からは「アルタナに記録された世界Aの一行瑠璃のデータを世界Bへと吸い上げるのは、あくまで一方通行であり、データ吸い上げ後は世界Aから一行瑠璃という存在が消失する」ことが明言されます。
コレですよ!!コレ!!!!
だってこの映画、ラストは「世界Cに辿り着いた『世界Aの堅書直実』のデータを吸い出して、現実世界で植物状態になっていた堅書直実を『現実世界の一行瑠璃』が起こしてあげる」シーンなんです。
つまり、この時点で考えられるのは「世界Cから『世界Aの堅書直実』という存在は消失した」ということ。
この映画、世界Aの一行瑠璃にとっては、せっかく誰も知らないまったく新しい(と思い込んでいた)世界Cに、自分のことを助け出してくれた思い人と一緒に逃げおおせることができたと思ったその瞬間、肝心の思い人が消えてしまったと考えられるわけです

これ本当にハッピーエンドですか?

そもそも現実世界に吸い上げられた世界Aの堅書直実にとっては、現実世界の一行瑠璃は一行瑠璃であって一行瑠璃ではありません。
世界Aの堅書直実にとってはあくまでも世界Aの一行瑠璃だけが一行瑠璃だからです。
まるで禅問答のようではありますが……。

さらに付け加えるとすれば、劇中、世界Bで蘇生された世界Aの一行瑠璃が先生のことを「あなたは堅書さんじゃない」と優しく突っぱねたシーンがありました。
このシーンは世界Aの一行瑠璃にとって、堅書直実は世界Aで結ばれた世界Aの堅書直実しか考えられないと示すシーンであり、世界Bで瑠璃を救おうと先生がやってきたことがただのエゴイズムに過ぎなかった、ということが暗示されるシーンでもあります。
これ、現実世界の一行瑠璃も同じことですよね?

明らかに狙ってやっている対比構造

世界Bの瑠璃を救おうと世界Aの瑠璃を利用した世界Bの直実。
現実世界の直実を救おうと世界Aの直実を利用した現実世界の瑠璃。
どう考えても完全に狙った対比構造です。

世界Bの直実は世界Aの自分自身から瑠璃という存在を引きはがすことを「所詮は記録されているだけの過去の自分自身のデータ」として割り切り、瑠璃を奪っていきました。
そして前述の通り、世界Bの直実は世界Aの瑠璃から(やんわりとはいえ)拒絶され、結果的に自らのエゴイズムを思い知らされることになるわけです。

一方で、現実世界の瑠璃は世界Aの自分自身から直実という存在を引きはがすことを選択しています。
これはあくまでも推測ですが、現実世界の瑠璃も世界Bの直実と同じく「所詮は記録データだ」と割り切って世界Aの自分自身から直実という存在を奪っているのです。
残酷なことではありますが、後に恐らく現実世界の瑠璃も、世界Cから現実世界に吸い上げられた世界Aの直実に「あなたは一行さんではない」とやんわり拒絶される運命にあるのではないかと考えられてしまうわけです。

そもそも、世界Aの直実と瑠璃からしてみれば、お互いがお互いに愛する人の手によって(二度も)バラバラに引き裂かれてしまう物語です。
しかも、直美も瑠璃も互いのことを思いあい、もう一度愛する人に会いたかったからこそ、世界Bの直実は瑠璃を、現実世界の瑠璃は直美をそれぞれ奪い去っているわけです。

世界Bの直実は自らの行いを省みて、最期には世界Aの自分に向けて「幸せになれよ」と言い残し消えていきました。
事実、世界Cへの渡航で世界Aの直実と瑠璃は手放しの幸せをようやく手に入れたかのように思わせられますが、しかしその幸せは他ならない現実世界の瑠璃の手によってあっという間に崩壊してしまうのです。

これらの事柄から考えられることは一つ。
HELLO WORLDは愛する二人が再会する物語ではありません。
愛する二人を断絶させる物語です。

野崎まど恐るべし

現実世界の瑠璃が出てくるのは最後の最後、ほんのわずかなシーンのみですが、恐らくこの映画はこの数秒のシーンを観客に見せつけるためにあると私は考えています。
公式キャッチコピーで「この物語(セカイ)は、ラスト1秒でひっくり返る――」などと宣っていますが、こんなに秀逸なキャッチコピーがあるか!と感心するばかりです。
ラストの直実が現実世界で目覚めるシーンさえなければ本作はセカイ系ボーイミーツガールとして佳作の立場を得たでしょう。
しかし、最後の最後にあのシーンを差し込むことで結末の意味合いが180度変わってしまうのです。
徹底した伏線と明らかな対比構造、これらを緻密に組み立ててガッチリとストーリーラインをまとめきり、あまつさえ一見するとハッピーエンドであるかのようにガワだけ仕立てあげている……すべて計算づくだとするなら、お見事としか言いようがありません。
野崎まど恐るべし。
熱狂的なファンがいるのも納得の実力です。

同氏脚本の『正解するカド』なんかは名前しか知らないけど、本作で氏の実力をまざまざと見せつけられたのでこちらの方も少し気になってたり……。

当初、劇伴が私自身めちゃくちゃファンのOKAMOTO'S( https://www.youtube.com/channel/UCQwo62t9g-E_ZKXzb4CRL-Q )を中心としたグループが担当していると聞いて、ほとんど音楽目当てで映画を観に行ったわけですが、良い意味で予想を裏切られまくる結果になって感無量。
映画はついつい監督の名前を意識してしまいがちですが、今後は脚本の方にも着目してみるとよりディープな楽しみ方ができるんじゃないかなぁ、と気付かされる切っ掛けになる映画でした。

追記

もちろん音楽の方も素晴らしかったです。
サントラ買います
https://aoj.lnk.to/dig5V

以下、関係あるようでないようでちょっとあるかもしれない話

冒頭貼り付けたツイートに「SOMA」という単語を挙げています。
SOMAというのは海外の名作SFホラーゲームであり、「データとしてコピーされた人格は本人と同一の存在であると言えるか?」というまさしくHELLO WORLDと同様の哲学的テーマをメインに据えた重厚な物語が楽しめます。
本稿ではこれ以上詳しく触れませんが、興味がわいたのならぜひ遊んでみてください。
でもしっかり怖いので遊ぶのには覚悟が必要です。

HELLO WORLDを観終わって(というか観てる間からずっと)思い浮かんだのはSOMAでした。
主体としての「私」と、客体としての「私という存在」は、一見すると同一として考えられるかもしれませんが、実際は全くの別物です。
例えば人格のコピーは他者から見れば客体の存在として同一であると認識できますが、主体としての「私」から見た時、コピーは同一の存在ではありません。
「私」は「私」にしか認識できないからです。
コレに纏わる有名な思考実験に、スワンプマンやテセウスの船なんかがあります。
ドラえもんにも似たようなテーマを取り上げたエピソードがありますね。
実を言うとSOMAはここまで踏み込んでいますが、HELLO WORLDは更にもう一歩、この哲学的な命題に踏み込んだ物語を展開させています。

世界Bに吸い上げられた世界Aの瑠璃を、世界Bの直実は世界Bの瑠璃と同一として認識しました。
これは世界Bの直実にとって瑠璃は「客体」だからです。
しかし、繰り返し述べるように、世界Aの瑠璃からしてみれば自分と世界Bの瑠璃とは別人でしかなく、世界Aの直実と世界Bの直実もまた別人であります。
客観的には「直実」は「直実」として、「瑠璃」は「瑠璃」として同一の存在ですが、主体としては全くの別存在なのだということを、物語を見守る側である我々は嫌でも痛感させられる。
人工知能の技術を駆使して人格のコピーを生み出すという、まさにHELLO WORLDの世界そのままの試みを実現しようと世界中の科学者たちが日々研究に勤しむ時代を生きる我々に、この映画は「私」とは何か、加えて「個人」とは何か、といった根元的な問い掛けを、何てことないかのように押し付けてくる。
ここら辺の導線の形成がまた見事、鮮やかです。
やはり野崎まど恐るべしと言わざるを得ません。

何が恐ろしいってこの映画、前日譚やサイドストーリーは用意されているのに後日談だけはどこにもないんです
絶対これも意図的にやっています。
この物語の残酷さに気づけば気づくほど「後日談がない」という事実がボディーブローのようにじわりじわりと効いてくるのです。
他人に勧めるには人を選ぶかもしれませんが、個人的には多大な衝撃をもって迎えられる紛れもない怪作として忘れられない一本となる予感をバチバチに感じる映画でした。

……ここまで長々と書いておきながら全くの的外れな考察をしていたとしたら何だか笑えないな~とか、これくらいの考察だったら既にたくさんの人がしてるだろうな~とか、冷静に考えつつ筆を置きたいと思います。
読んでいただきありがとうございました。

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