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清川 栄治さん

2024年5月5日 西武ライオンズ、清川栄治さんがお亡くなりになりました。清川さんは、私の大学の大先輩であり大恩人でもあります。また近鉄バファローズ、社会人野球日立製作所でも共に優勝を目指していました。清川さんとの思い出は語っても語り尽くせません。今回は清川さんの素晴らしい人間性を少しでも多くの方に知ってもらいたくて、久し振りにNOTEに投稿することにしました。


 私は投手として大商大に入学します。そして4年生に清川さんがいました。すでに清川さんは関西屈指の本格派サウスポーとして大商大のダブルエース(川原新治氏後に阪神タイガース)で、関西六大学リーグで突出した成績を残していました。大商大の投手陣は、4年生が班長になり練習内容を決めて、グループに分かれて練習やトレーニングを行います。私は清川さんの班になり、いつも清川さんの横にいて清川さんの指示を大声で伝達したりサポートをしていました。

 そして自然な流れで清川さんの付き人的な役目を担うことになります。当時はパワハラや体罰が当たり前、また4年生は神様、1年生はゴミの時代です。そんな時代にあって清川さんは、一度たりとも怒鳴ることもなければ、清川さんの口から一切ネガティブな言葉は出てきません。私たち下級生が失敗をしても私たちを座らせ(もちろん正座ではありません)自身も座り、目線を合わせて、いつも穏やかな表情で諭すように私たちを教育してくれていました。大人としての礼儀作法や、洗濯物の畳み方やスパイクやグラブの磨き方も1から教えてくれました。もちろん多くの野球に関することもです。なのでいつも他のグループの下級生から「清川さんのグループでええなあ」と言われたものです。


 しかし、ランニングやトレーニングになると逆のことを言われます。ランニングやトレーニングも清川さんが考えたメニューを行うのですが、これが他のグループと比にならないほど圧倒的にキツく、付いていくのに精一杯な内容でした。しかし、清川さん自身は一切妥協せず、メニューを消化していきます。と同時に私たち下級生を鼓舞までしてくれます。そんな清川さんがいてくれたからこそ、私たちは頑張ることが出来ました。


 こんなこともありました。当時の大商大では、Aチーム入りが出来なかった一年生はリーグ戦中、部員の少なかった応援団に一時的に入部させられるというしきたりがありました。当然ですがその期間練習があまり出来ないのです。私は高校時代に痛めた肩が治っておらずボールをあまり投げれない状態だったあせりもあり「応援団に入るために入学したのではない」と強く思い私は退学をしたいと清川さんに申し出ました。すると清川さんは監督に「立花は肩を壊しているので、応援団で肩や腕を酷使することになるので免除してやってほしい」と申し出て監督を説得してくれました。そのお陰で私は応援団に行かなくてすみ、また退学することも無くなりました。清川さんは一年生の私のために、当時は「監督に意見を申すなどもってのほか!」の時代にも関わらず話をしに行ってくれたのです。 

 その時清川さんに強く言われたのは「そう簡単に辞めると言うな!親のことも考えなあかんやろ!」と。後に清川さん本人からではなく他の関係者から教えてもらったのですが、清川さんは、中学高校と新聞配達をしながら学費を稼いでいたと。この時は自分が恥ずかしくなりました。

  私がこうして好きなことを職業として今生きていられるのは、後に出会った人達に恵まれたからです。もしこの時大学を辞めていれば、そんな人たちと出会うことなく、間違いなく人生は大きく変わっていたでしょう。


写真1 ・私が大学一年時の投手陣。後列右から5人目が清川さん、前列右から2番目が私


 私は今、野球のハイパフォーマンスコーディネーター兼コンディショニングコーチとして活動をしています。それと同時に野球界からパワハラや体罰が無くなるようにコーチングの講演や指導者研修会も行なっています。私が何故このような活動もしているかという理由は割愛させて頂き過去の私のNOTE(私が初めて日本の野球界に疑問を感じた時①②等)を参照して頂ければと思います。

 そして、コーチングの講演等も行なっているもう一つの理由は、清川さんの存在です。清川さんは、前述したようにパワハラ全盛期の時から、恐怖や権力によって私たちを動かすのではなく、しっかり話を聞き、そしてゆっくり話し諭す。その人の「心が動いた結果行動を起こさせる」という今必要とされるコーチングをしていたからです。清川さんのような人が野球界のコーチに増えてほしいそんな気持ちが今の仕事の情熱のひとつとなっています。清川さんはそんな人です。

 

 そして、清川さんは大学を卒業し広島カープに入団します。驚いたのは関西ナンバーワン本格派サウスポーと言われた清川さんでさえ、ドラフト外での入団なんだとプロ野球のレベルの高さを感じたことです。

 当時のカープは投手王国で特に左投手は豊富でした。この話は近鉄に清川さんが近鉄に移籍して来てから教えてくれたのですが、さすがの清川さんですら、これでは一軍で投げるのは難しいと判断し、サイドスローに転向を試みましたが、当時のコーチに却下されたそうです。それでも清川さんは「自分の生きる道」と明確に決めていたので一年かけて、少しずつ肘を下げていったそうです。そして、コーチが気づいた時には、完全にサイドスローでした。しかし、しっかり結果を残していたので何もコーチに言われなかったそうです。清川さんは自分の信念を貫き通し、自ら道を切り開いたのです。これが本格派サウスポーから、名リリーバー技巧派清川投手の誕生となりました。 その後の清川さんの活躍は、みなさんご存知の通りです。


 一方私は大学4年生になった時、現役に見切りをつけ、かねてからの夢である「プロ野球のトレーニング、コンディショニングコーチ」に向けて学生トレーニングコーチになりました。そして、天理大学体育学部で聴講生として単位を習得し、ダイナミックスポーツ医学研究所という病院が経営するジムで実践を学び、1989年近鉄バファローズに入団します。そして、1991年5月に清川さんがシーズン中にトレードで近鉄バファローズに来ることになります。この話を聞いた時、喜びと同時にととても緊張したことを覚えています。

 

 そんなことを知ってか知らずか(たぶん知ってたと思います)仰木監督は「明日は西武に移動日やけど、清川が藤井寺に来るので寮に案内してから一緒に移動して来い」と。緊張は一気に高まりました。そして、清川さんは藤井寺球場に到着し、緊張はMAXに到達しましたが、いつもと変わらずの優しさ満開の笑顔で「宜しくな」と握手してくれました。住まいが決まるまで一時的に寮に入るため、清川さんの荷物を部屋に入れるのを手伝いました。荷物を運び終わった後、清川さんが「カープから持ってきた物はこれだけ」と、カープの赤い帽子と赤いベルトでした。私は新しいベルトは支給されますよと言うと、清川さんは「近鉄も赤いベルトでよかったわ。これでまたこのベルトを使えるわ」と。聞くと当時闘病中の津田恒実さん(故人)のベルトだそうです。この時も清川さんらしいなと感じたものです。

 また当時の私は当たり前と言えば当たり前ですが、用具を提供してくれるメーカーはどこも付いてくれていませんでした。いつも借り物のグラブで選手とキャッチボールをしていましたが、清川さんは私のために、オーダーした赤いグラブをプレゼントしてくれました。親指部分にBuffaloes立花と刺繍も入っていました。私は嬉しくていつもピカピカに磨いていました。

 また私は近鉄入団以来毎年オフシーズンの12月は、約2週間自費でアメリカに勉強に行っていました。まだ若い私の年俸は安く毎年借金をしての渡米でした。そんな私を見かねてか、清川さんはコソッと「しっかり勉強してきてくれよ。少しでも足しになれば」と餞別をくださいました。帰国してからも「自主トレ手伝ってくれ」と京都の実家に招かれ、近くのジムでメニューを作りました。そして、メニュー作りはたった1日で終わっているのに、またしても「これ勉強に使え」とお金を頂きました。こうして私は18才からずっと清川さんに可愛がって貰いました。



写真2・藤井寺球場のウエイトルームで清川さんのトレーニングメニューをチェックする私と清川さん


 その後私は、ロッテやメッツに移籍し再びロッテに戻ります。そして兼ねてからの夢を実現させるために2度目のロッテ退団をし、スポーツ整形外科に力を入れている病院内に念願のジム(大阪堺市の阪堺病院内SCA)を主宰します。その時の清川さんは広島で二軍のコーチをされていました。ジム開設して間もない頃、カープの2軍がウエスタンリーグの阪神戦のため、大阪に遠征に来ていました。その時清川さんは、全投手を連れて私のジムに来てくれました。その時に選手と清川さんの関係を垣間見ることが出来ました。まだまだパワハラが横行していた当時において、私が清川さんの顔を見ると安心するのと同じように、またカープの選手たちも安心し切って清川さんと会話をしているのを見て、とても嬉しく感じたものです。だから清川さんのようなコーチが増えてほしいと改めて思ったものです。


 そして、お互い様々な経験をし、三度同じユニホームを着て同じ目標に向かうことになります。今度は、社会人野球の名門日立製作所で都市対抗野球優勝を目指すことになったのです。そして、一緒に都市対抗野球に一緒に出場することも出来ました。


写真3・東京ドームにて

後に清川さんは西武ライオンズに入団しますが、私にとって清川さんとまた同じ時間を過ごせたはとても幸せな時間でした。その後もずっと相談に乗って頂きました。

 

 清川さんはこんな人です。私の憧れであり、また目標でもあり、そして恩人です。

このように私の人生において、清川さんはとても大きな存在でした。人生を振り返った時、清川さんがいなかったら、といつも思います。でも本当にいなくなってしまいました。とても辛いです。とても悲しいです。しばらくは心の底から笑えないと思います。しかし、野球界に清川さんの様な指導者が増えれば、もっともっと野球人口は増え、自発的にそして伸び伸びプレーし、結果大きく伸びる選手が増えると思います。だから私は、野球の技術やトレーニングを伝えるだけでなく、コーチングのことも伝えて行き、清川さんのような指導者が増えるような活動をして行きたいと思います。


清川さん、本当にありがとうございました。

またお会いできるその日まで・・・

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