Microbiome - 生態系としての人体 #1

 これは、あなたと、あなたを取り巻く小さな微生物たちの物語だ。

 あなたを成り立たせているその端整な身体は、一個の受精卵から始まった大いなる歴史そのものだ。はじめに、一個の卵子があった。その卵子が、文字通り万や億に一つの精子と出会い、合体し、一つの受精卵になった。その偶然に満ちた記念すべき邂逅の後、受精卵は二つ、四つ、八つと分裂を繰り返し、数を増やしていった。やがて、不思議な作用によって、球体に近かった細胞の塊に非対称性が生まれた。細胞たちは互いに示し合わせたかのように、あるものは頭に、あるものはお尻に、あるものは心臓に、あるものは左手に、あるものはそれらを繋ぐ血管や神経へと変化していった。

 人体造りは、決して平坦な工程ではない。平均20マイクロメートルほどの大きさに過ぎないふにゃふにゃして頼りない細胞をかき集めて、階段を二段とばしで駆け上がったり、頭を掻きむしりながら方程式を解いたり、アルコールを飲み、ステーキを頬張りながら愛を語り合ったりする1メートル70センチの生物を造り上げろと言われても、誰もが困惑するだけだろう。そんな類まれなる存在が、60兆もの細胞からなる巨大な多細胞体として、本書を開いている今のあなたなのだ。あなたが存在しているという事実は、この世の中でも最も過小評価されがちな、紛うこと無い奇跡の一つであろう。

 だから、そんな奇跡を謳歌しているあなたにとってみれば、肉眼で捉えることすらできない微生物たちなど、取るに足らない存在かもしれない。

 微生物の代表として細菌を例に挙げてみよう。細菌は、たったひとつの細胞だけで慎ましく存在している。単細胞生物である細菌から見れば、60兆個もの細胞が巧みに協調して動きまわる人体は、想像を絶するほどの巨大さをもって映るはずだ。いやむしろ、大きすぎて、同じ地上の生命体であるとは想像も及ばないだろう。一人の個人が、全人類をさらに1000倍した数の大集団と向かい合っているようなものだ。さらに、大きさの違いも著しい。几帳面なあなたが毎日欠かさず行う歯磨きを幸運にも生き残った細菌が、口の中にいるとしよう。その細菌にとっての口腔の広がりは、あなたにとっての山手線の内側と同じ程度に広大だ。ではその細菌にとっての、人体の大きさは?なんと、あなたにとっての日本列島の半分の大きさに相当してしまう。スケールの違いはそれだけではない。栄養状態の良い細菌は、わずか数分から数十分で細胞分裂する。これを細菌の世代時間としてみよう。細菌にとっての人間の寿命は、あなたにとって、恐竜が闊歩していた中生代から現代までの数億年の時間間隔に匹敵する。やはり直感通り、細菌の微小さは、人体の巨大さによって圧倒されているように見える。

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