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“愛がすべて”の意味を独自見解で紐解いてみる。

結局すべては“愛”のはずなのですが・・。

 「結局、愛がすべてだ」・・・。様々な事象、情報探求を行っていくと、必ず一度はたどり着く究極の解決策。僕もこの考え方、思想には勿論賛同しているのですが、こんなに分かりやすい究極の解決策がありながら、何故人はその解決策に素直に向かおうとしないのか?どうしてもそれが気になって今現時点での僕自身の経験と知識と既存概念の枠を飛び越えた想像力で、今回はそれを独自の視点で紐解いていこうと思います。

確かに“愛(合い、会い、遭い、相い・・)”がすべてかもしれない・・・。

愛を“Ai”という音で、捉えなおした時、確かに日常的に身近にある行動に関するすべてが“Ai”でした・・・。

  • 愛し合い(Aishi-Ai

  • 助け合い(Tasuke-Ai

  • 出会い(De-Ai

  • 喜び合い(Yorokobi-Ai

  • 悲しみ合い(Kanashimi-Ai

  • 憎み合い(Nikushimi-Ai

  • 罵り合い(Nonoshiri-Ai

  • 殺し合い(Koroshi-Ai

  • 奪い合い(Ubai-Ai

  • 向き合い(muki-Ai

  • 騙し合い(Damashi-Ai

  • 協力し合い(kyoryoku Shi Ai

  • 災難に遭い(Sainan Ni Ai

  • 相対する(Ai Tai Suru)

  • 利害(Ri-GAi

  • AI( Artificial Intelligence)

と上げたらキリがないくらい人々の日常生活、行動の中には“Ai”がいつも存在するわけなのです。つまりこの世界で起こるすべての主要な活動は“Ai”しかないわけです。この世界に自分一人しかいなければ上記はほとんど成立しません。例えば騙そうにも自分以外に誰も存在しなければ不可能な行為ですよね。この世界で生きることは見方を変えると常に何かと関わりながら“Ai”と向き合わねばならない。もっとネガティブに表現してしまうと、“Ai”という制約が私たちの人生を司っているという考え方もできます。前述の内容を受けて、僕自身の見解は、一般的に言われている“愛”は素晴らしいものだと言われていますが、抽象度が高すぎて、僕の中では究極の解決策だろうとは認識するものの、ぼんやりしている。それを具体的に行動に置き換えていくと他のこの世界に存在している様々な事象と同じで、例外なく“愛”にも裏表があり(上記で示した例)この世界は全て表裏一体、光と闇という絶対的な真理である。という側面から紐解いても、やはり世界には“あい(すべての”Ai“を含有するもの)”しかないのかもしれませんね。(一般的に言われている”愛”と異なる独自見解の裏面も含めたものとして”あい”と表現させていただきます)

“あい”はすべてにあるけれど、それでも優しい“あい”を優先して活用していきたい

 かなり独自の目線で書いているので、読む人によっては自身の哲学の中に存在する“愛”を否定されるように感じてしまう内容ですが、やはり僕も森羅万象に優しくありたいと思い、それを心掛けて生活しているつもりです。この世界で生活していく中で、できる限り優しい“あい”を優先して活用し、闇に存在する負の“あい”はできる限り使いたくないとは思っています。
しかしながら、表の“あい”を知らなければ、裏の“あい”を理解することはできない。そして逆も真なり。僕自身が「愛がすべて」と頻繁に様々な書物やコメントで目にした時、言われた時に感じていた何とも表現が難しい“違和感”は、片側を司る“愛”を語られるものばかりが強調され、もう一方の側面の“あい”が語られることが無いということだったのだとつい先日発見してしまったので、忘れぬ内に文章に書き起こしてみました。「こういう考え方もあるよね」という物事を独自目線で考察する一参考例としお考えいただければ幸いです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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