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ずっと避けてた小説を読む

タイトルが体育会系っぽくて避けていた、西加奈子の『サラバ!』。

機会があったので読んだのだが、なんというか、とにかく凄い小説だった。

まず厚い!ストーリーの内容も、分量も(上下巻で合計700ページぐらい)。

超常現象とか、殺人みたいな大事件は起こらない。けどその分、精神的なうねりというか、葛藤が巧みに描かれている。

物語のテーマ

この本のストーリーを一言で表すと、「信じるものを見つける物語」になるだろうか。

仏教やキリスト教などの宗教、結婚、自分らしく生きるという決意など、この物語に登場する人物は、常に信じられるものを見つけようとしている。

中でもそれがよく表れているのが、主人公(歩)の姉である。

姉は、容姿があまり優れておらず、とにかく目立とうとし、周囲に溶け込むことを嫌うため、学校でいじめられてしまう。

そのせいで不登校になるのだが、引きこもっている自室の壁に巻貝の模様をびっしりと掘ったり、近所のおばちゃんが始めた新興宗教の重要人物になったり、東京に出てストリートアーティストになったりするなど、とにかく色々なことに挑戦する。

物語の序盤では、姉は厄介な人物として描かれ、年齢の割に大人びた歩とは対照的で、幼い人物として描かれる。

しかし、後半ではサンフランシスコで婚約者を見つけ、ヨガに目覚めたことにより、売れない物書きに落ちぶれた歩を導くようになる。この部分も、歩とは対照的だ。

主人公と現代人の共通点

歩は、厄介な姉を抱えていたこともあって、周囲の空気を読むことに長けていた。さらに、容姿も優れており、恋愛や勉強も人並み以上にこなしていた。

ただ、個性や情熱が無かったため、最初は順調だったライターの仕事も、不況により依頼が減ってしまい、恋愛やセックスはするものの、女性との関係も長続きしなかった。

このような歩の姿は、現代の若者を象徴しているように思えてならない。

様々なことを上手くこなせるが、真剣に取り組めるものを見つけられず、どこか虚しさを感じている。

スマホやAIが登場し、簡単に情報を得られるようになったが、情報が多すぎるせいで、どれが自分に合っているのか選ぶことができない。

最初は、順風満帆な将来が約束されていたように見えた歩が、見事に転落していく様は、パラドックスなどではなく、1つの真実なのだろう。

信じるもの=結婚?

先に、これは「信じるものを見つける物語」だと述べたが、これに「信じるものとは結婚である」という文言を付け加えても違和感がないほど。結婚と幸せは結び付けられている。

信じるものを探して苦悩し続けた姉は、結婚によってその探求を終えるし、エジプトで出会った歩の親友や、高校生の親友、大学生の親友も、結婚によって苦悩を脱し、幸せを得る。

物語の最後に、歩は今までの人生を小説にして出版することを決意するのだが、あまりにも結婚=幸せというメッセージが強いため、どうしても「そんな目標で大丈夫か?」と声をかけたくなってしまう。

個性的で魅力的な人物たちが、結婚した瞬間「ふつうの人」になってしまうのは、現実的とはいえ、少し悲しい展開だと感じた。

21歳の若僧としては、これに反発したい気持ちもあるが、大人からのメッセージとして受け入れるべきなのかもしれない。

印象に残ったシーン3選

猫の肛門を信じよ

ここからは、私が気に入ったシーンを紹介する。

まずは、「サトラコヲモンサマ」だ。

これは、近所のおばちゃんが始めた新興宗教の名前である。

教祖や教義はなく、白い布をかけた台に「サトラコヲモンサマ」と書かれた紙があるだけのシンプルなものだ。しかし、なぜか多くの信者を集めており、お布施によって専用の建物が建つほどである。

この宗教を始めたおばちゃんが、死ぬ間際になって歩に真実を語るのだが、「サトラコヲモンサマ」は神様ではなく、近所にいるチャトラ猫の肛門だったのだ(チャトラコウモン→サトラコヲモン)。

これは別に、おばちゃんが人を騙して金を稼ごうとしたわけではない。

そうではなく、「何でもいいから信じるものを見つけることの大切さ」を知っているおばちゃん(実は作中では重要人物)が、善意によって作った宗教だったのである。

この話自体も衝撃的だが、私は「何でもいいから信じるものを見つけることの大切さ」というメッセージが頭に残った。

「神様なんていない」「何をやっても無駄だ」と感じることはある意味で正しいのだが、それでは歩が陥ったのと同じ虚無感に襲われてしまう。

宗教を信じることは難しいかもしれないが、姉が行っていたヨガなど、損得勘定を忘れて熱中できるものを見つけることは、思っているより大事なことなのではないだろうか。

神様は私の中に

次は、ヨガに目覚めた姉が歩を導く場面だ。

「私が、私を連れてきたのよ。今まで私が信じてきたものは、私がいたから信じたの。」

「私の中に、それはあるの。『神様』という言葉は乱暴だし、言い当てていない。でも私の中に、それはいるのよ。私が、私である限り。」

これは、姉が歩に向かって言ったセリフだ。

「私がいたから、私は信じる」というのは、なんとなくデカルトっぽい感じがするが、その次に言った「私の中に、神様(らしきもの)はいるのよ。」というセリフは非常に示唆的である。

よく「お天道様が見ている」と言うことがあるが、私は「お天道様」とは「自分自身」のことだと思っている。

誰からも見られない場所であったとしても、自分は自分の行動をすべて知っている。このときの「自分」は、お天道様と全く同じ機能を果たしているように感じないだろうか。

神様が本当に存在するのかはわからないが、自分をいつも見ており、行動から感情まで制御している「自分」は、まさしく「私にとっての神様」である。

人生の課題と向き合うタイミング

最後は、歩が出家した父と再会する場面だ(どうして出家したのかは省略する)。

僕が自分の名の由来を聞くのは、今でなくてはならなかったのではないか。名前だけではない。すべては、なされなければならない時に、なされているのではないだろうか。
須玖(高校時代の親友)に再会したのは、姉の帰還は、あのときでなければならなかったのではないか。そして僕が父に会うのは、今このときでしかなかったのでは、ないだろうか。

このセリフは、作中で最も気に入った文章だ。そのため、少し長くなったがそのまま引用した。

歩に限らず、やらなければいけないことや、やろうと思っていることなど、「人生の課題」を持っている人は数多くいるだろう。

そして、こうした課題はなるべく早いうちに解決するべきだ、と考える人も多い。しかし、人生を振り返ってみると、今まで出会ってきた課題を解決した時期は、そのときでなければならなかったように感じることがある。

簡単な例を出すと、大学受験の勉強は早いうちにしておいた方が良いことは確かだが、勉強をサボっていたからこそ、部活に打ち込んだり、友達と遊んだりできた、ということがある。

それだけでなく、追いつめられることで、かえって集中して勉強に取り組めた、ということもあるだろう。

その人にとっては、多くの時間を遊びに使い、最後の期間に勉強を始めるのが、適切なタイミングだったのだ。

もちろん、周囲の人より勉強を始めるタイミングが遅いと、プレッシャーを感じたりすることもあるだろうが、適切なタイミングというのは、待っていれば(基本的に)訪れるものである。

そのため、「勉強しなきゃ」と思い悩むだけの時間は、多くの場合無駄になる、と私は考えている。

だからこそ、タイミングが訪れることを信じ、ある程度流れに身を任せるのが、良い選択だと私は考えている。

大事なのは、早く始めることよりも、適切なタイミングを見つけ、それをしっかりと捉える能力なのだ。

最後に

以上が、『サラバ!』を読んで私が抱いた感想である。

タイトルの意味や、伏線についてはほとんど触れなかったが、ストーリーを紹介したかったわけではないので、説明不足なところは許してほしい。

「人生が変わる!」とまで感じるかは分からないが、長期休みで鈍っている意識を取り戻すには、ぴったりの内容だった。

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