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好きなボカロPの良さを頑張って言語化するシリーズ 「ピノキオピー」編

このシリーズは、大して音楽の知識を持っていない私が、お気に入りのボカロPの良さを、頑張って文章に起こすというものです。

※シリーズと書いていますが、続くかどうかは未定です。


ピノキオピーの魅力

革新的かつ伝統的

第二回で取り上げるのは、「ピノキオピー」。

前回紹介した「ナユタン星人」と同じく、初期から活動しており、未だに最前線を走り続けていますが、実はかなり異質なボカロPです。

彼は、「ボカロにゆっくりボイスと肉声を取り入れる」という、前代未聞の試みを行いました。

そもそも「ボカロP」というのは、「ボーカロイド”プロデューサー”」を意味する言葉です。

言葉通りに解釈するなら、「初音ミクや鏡音リンといったアイドルを、プロデュースする楽曲を作ること」、これがボカロPの仕事と言って良いでしょう。

そのように考えると、ボーカロイド以外の歌声をボカロに使う、という試みの異質さがわかると思います。例えるなら、アイドルの曲にメンバーじゃない人の歌声を入れるようなものです。

ただ、このような斬新な試みとは正反対に、彼はほとんどのMVに初音ミクを登場させており、その意味では古典的なボカロPであるとも言えます。

ボカロ=キャラクターソング?

少し話は変わりますが、ボカロの黎明期には、「ボカロ=ボーカロイドのキャラクターソング」という構図が、かなり支配的でした。

こうしたボカロ黎明期を代表する曲は、初音ミクの声とキャラクターを同一視し、初音ミクというキャラクターを土台にした楽曲となっています。

しかし、このような価値観は決して支配的とは言えず、「Kemu」や「Neru」といった、比較的初期から活動するボカロPであっても、MVのほとんどでボーカロイドとは関係のないキャラクターが使われています。

前回取り上げた「ナユタン星人」も、最初から自作のキャラクターをMVに使っていました。

こうした事実を踏まえると、初期から最新の楽曲に至るまで、初音ミクなどのボーカロイドをキャラクターとして捉える彼の作品は、古典的な様式を踏襲しているとも言えそうです。

ボーカロイドが、ギターやベース、ドラムなどの単なる楽器ではなく、「キャラクターを持った楽器」であるということを再認識させてくれます。

そんな彼の楽曲が、今でも評価され続けているのは、ボカロ古参勢を自称する身としては嬉しいです。

私は、彼の魅力はこうした革新さと、古典的な部分が入り混じっているところにあると思います。

ミクと”ゆっくり”の親和性

では、「ボカロにゆっくりボイスと肉声を取り入れる」という、彼の革新的な試みについて深堀りしていきましょう。

ゆっくりボイスを取り入れた楽曲で代表的なのは、「すろぉもぉしょん」です。

声だけではなく、しっかりとゆっくりボイスの象徴である「饅頭」がMVに登場するところに、キャラクターを大事にする彼の姿勢が感じられます。

ボーカロイドとゆっくりボイスを組み合わせるという、ありそうでなかった手法は、当時の私にとってかなり衝撃的でした。

ゆっくりボイスが使われたのは、この曲のタイトルが「すろぉもぉしょん」だから(スローモーション=ゆっくり)ですが、同じ機会音声ということもあり、かなり親和性が高いように感じます。

これは余談ですが、ゆっくりボイスを使った動画がメジャーとなったのは、「自分の声をネットに公開するのが恥ずかしい」という、日本人的な精神が関係しています。

それが、次第に「ゆっくり動画」というジャンルになり、投稿者という個人の枠組みを超えて、一つの文化として認識されるようになりました。

仮に動画投稿が初めてであっても、ゆっくりボイスを使えば、自分の声でしゃべるよりも、はるかに強い親近感を持って受け入れられます。

こうした、投稿者という個人を「ゆっくり動画」というジャンルに溶け込ませてしまうというのが、ゆっくりボイスの特徴であるといえます。

もうお分かりでしょうが、ボカロでも非常によく似た現象が起こっています。

曲の投稿が初めてだったとしても、初音ミクの声を使えば、自分の声で歌うより親近感を持って受け入れられます。そして、ボーカロイドを使った曲を作る人は、個人よりも先に「ボカロP」という枠組みで捉えられます。

「ゆっくりボイス」「ボーカロイド」という共通項を持つこと、個人よりもジャンルが強く意識されること、音だけでなく、普及した経緯も似ている2つを組み合わせたのは、ある意味で必然のことだったのかもしれません。

しかし、ピノキオピーの他にゆっくりボイスを使っているボカロPは(私の認識する範囲だと)他におらず、彼の専売特許みたいになっています。

なぜ「肉声を取り入れる」ことが革新的だったのか

それに比べて、注目されることは少ないものの異質で革新的なのは、「肉声を取り入れた」ことです。

わざわざ「"肉"声」という表現を使っているところに、ボーカロイドと人間の声を別物と捉えている私の感覚が表れていますが、この2つを組み合わせるというのは、当時ボカロを聞いていた全員が驚いたと思います。

ただ、ボカロに人間(作曲者)の声を取り入れるというのは、単に手法として面白いだけではなく、先に述べた「ボカロは個人よりジャンルが強く意識される(=アーティストの個性が認識されづらい)」という問題を解決し、ボーカロイドでは不可能な感情の表現も可能にするという、意外と理にかなった手法だといえます。

「祭りだヘイカモン」という曲では、サビのコーラスに肉声を使うことで、祭りの雰囲気や盛り上がりを表現したり、「その神輿はニセモノだ!」という歌詞(ここだけ完全に人の声)を強く印象づけたりしています。

「きみも悪い人でよかった」という曲は、私が最も好きな曲の1つですが、この曲も肉声を効果的に使うことで、人間臭さや「2人の愛情」という曲のテーマを、見事に描いています。

特に、ラスサビのユニゾンは、2人が永遠に一緒であることを感じさせる表現になっており、この曲をより感動的にしています。

これが人間の男女の声だと、単なるラブソングになってしまいますが、ボーカロイドと人間の声を組み合わせることで、「ボカロPとボーカロイド」「人間と機械」の関係性を描いた歌のようにも捉えられるのは、ボーカロイドというジャンル、肉声を入れるというアイデアが無ければ実現しなかったでしょう。

ボカロに人間の声を取り入れた曲として有名なのは、みきとPの「ロキ」ですが、この曲はどちらかと言うと、「歌ってみた」に近い形で肉声を使っています。

イメージとしては、「みきとPと鏡音リンのコラボ」といった感じです。

ボカロと共に、「歌ってみた」が普及したことで、「原曲を歌うのはボーカロイドだけ」という古い固定観念が崩れ、自由な表現方法ができるようになったことが大きな理由でしょう。

これ以外にも、ハチの「砂の惑星」という楽曲などで作曲者の声が使われていますが、これらの曲は比較的最近に作られたものなので、一応ボカロに肉声を取り入れた最初の人としては、ピノキオピーを挙げるのが正しいのではないかと思います。

もちろん、どちらの楽曲も非常に素晴らしいもので、ボカロというジャンルの発展について考える上では、絶対に欠かすことのできないものです。「ボカロの正当進化」としてこれらの楽曲を捉えるのが、正しい態度でしょう。

ピノキオピーが最近出した楽曲で、最も再生されているのは「匿名M」という曲です。

ボーカロイドの非人間的な部分を、あえて初音ミクに歌わせることで、独特のキャラクターや人間っぽさを持たせるという手法は、さすがピノキオピーといったところです。

そうした自虐的な歌詞も面白いですが、個人的には

「最近〇〇さん、私に歌を歌わせてくれないんです。自分で歌い出したり、キャラを乗り換えたり、飽きたり、色々です。でも、それぞれ事情があるだろうし、引き留めるのも重いだろうし、みんながハッピーならいいな!って思います。」

という指摘を、初めて肉声を取り入れた人がしたというのが、ものすごい皮肉過ぎて、思わず吹き出すぐらい面白かったです。

ボカロの表現の幅が広がることは嬉しいですが、それに伴って古き良きボカロらしさが失われている(変容している)ことの虚しさを、感傷的になるわけでもなく、怒るわけでもなく、淡々とした口調で語る初音ミクの姿は、言葉にできないユーモラスさがあります。

この歌詞は、肉声やゆっくりボイスを使いつつも、ボーカロイドというコンテンツを大事にしているピノキオピーによる、最大限の風刺と言ってよいでしょう。

音楽性と歌詞、そして禅問答

またまた長くなってしまいましたが、最後にピノキオピーの音楽性と歌詞について、一曲に絞って見ていきたいと思います。

ピノキオピーの楽曲は電子音が多く、バンドサウンドに近いナユタン星人の楽曲とは対照的です。

また、コーラスも多用されているので、「実際に演奏されているかのようなサウンド」ではなく、「打ち込みでガッツリ作りこんだサウンド」という印象を受けます。

これは私の勝手な推測ですが、彼は初音ミクの「バーチャルな」部分を強調したいと考えており、全体のサウンドもそうしたイメージに合わせているのだと思います。

ピノキオピーの曲は、様々な音が使われていたり、細かな工夫が多かったりします。そうした音の変化を楽しむためには、ヘッドホンやイヤホンで聞くのがおすすめです。

「すきなことだけでいいです」は、コーラスや裏で鳴っているメロディーに注目して聞くと、ピノキオピーらしさを十分に感じることができるでしょう。

ピノキオピーの歌詞の特徴は、「伝えたいことと真逆の主張をする」もしくは、「マイナスなイメージの言葉と、プラスのイメージの言葉を組み合わせる」というのがあります。

「すきなことだけでいいです」は、前者のパターンで、「すきなことだけでいい→すきなことだけではダメ」というメッセージのある曲です(後者のパターンは、「きみも悪い人でよかった」「愛されなくても君がいる」など)。

さらに面白いのは、「すきなことだけではダメ」といった意味の歌詞が、一度も登場しないことです。

その代わり、「全人類が好きなことやったら 世界は滅亡するけど」「すきなことだけでいいです やっぱ それだけじゃ難しいです」など、かなり遠回しな言い方がされています。

直接「ダメ」と言われると、どうしても反発したくなってしまいますが、モノローグ的な言い方がされていると、「まあ、現実ってそんなもんだよな」と受け入れる気持ちが湧いてきます。

このようなテクニックを使っているところが、彼のニクいところです。

メッセージを押し付けるのではなく、そっと寄り添って、何か感じ取るのを待っているかのようなピノキオピーの歌詞は、個人的にはとても好きです。

言い過ぎかもしれませんが、禅問答のような高尚さというか、偉大な人の話を聞いているような感じもします。

「すきなことだけでいいです」は、「すきなことだけでいい」という個人の悩みを、地球や宇宙といった壮大な規模で捉えているところが面白いです。

これは、カントの格率(いつ誰が行っても問題のない行動をとれ、という倫理学の考え方)のように、説教クサい正論ではなく、あまりにも大規模に捉えることで、かえってバカらしくちっぽけに思わせることを狙っているのでしょう。

このように、決して「○○するべき」といった言葉を使わず、ときにユーモアも使いながら、「生きるとは何か」「幸せとは何か」といった大きなテーマについて考えさせてくれるのが、ピノキオピーの魅力です。

まとめ

さて、今回はピノキオピーの良さについて語ってみました。

彼が投稿している楽曲は非常に多く、テーマも多岐にわたっているので、今回私が行った分析では、多くの良さを取り逃してしまっていると思います。

ぜひ皆さんも、彼の楽曲を聞いて自分なりの良さを発見してみてください。

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