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プチ官能小説 『 愛 の 磨 耗 』

《暮らしと愛にまみれた男と女のある夜の出来事》

夕刻の駅、自動改札機を定期券が通過すると、私はようやく一日の労働から解放された気分になる。

待ち望んだ給料日、ATMが突きつける現実。

「家族のためだ」と、ボロ雑巾のように働いて、絞って出てきたのは溜め息だけ。
コンビニ前、グラビア雑誌の表紙をガラス越しに見つめながら缶ビールを飲み干すと、私はトボトボと歩き出した。

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ありきたりの幸せが軒をつらねる新興住宅地の一角に私のアパートがあり、そこで帰りを待つのは、献身的な妻と、生後間もない天使。
待つ人がいる幸せと、待つ人を幸せにできない苛立ちが交差点で渋滞し、帰宅時間はすっかり日付をまたいでいた。

深夜にも関わらず、酔っ払ってインターホンを連打する私を、妻はいつも通りの笑顔で迎えてくれた。
寝かしつけを終えたばかりの妻は、物言わぬ重い空気を察し、家事を後に回し、私の晩酌を優先させた。

張りつめた心に、妻の優しさとアルコールが染みわたると、労働によって鍛えぬかれた私の肉体は、恥ずかしいピンク色をしていた。

テーブルの前で微笑む妻、ダイニングチェアでうなだれる私。
予告なく始まる妻の尋問に、何の抵抗もできずに答えてしまう私。
妻の母性に完全に包囲され、溜まっていたストレスをすべて自白した時、私の肉体は射精に似た快感を覚えた。

気づけば、私は女々しい声で嗚咽していた。

すこし困った妻の顔は、私の魂を浴び、恍惚としているようにも見えた。

やがて妻は私にそっと近づき、心配そうに顔を覗き込んだかと思うと、突如、不適な笑みを浮かべ背後から私をロックオンした。
背筋を滑り落ちるシルクのネグリジェ。その下にある美しい湾曲が、私を夜の入り口へといざなっていく。
さっきまでの同情の余地は、欲情の月へと姿を変え、不確かなものをまさぐりあう私たちの闇を煌々と照らしていた。

月の下、息を吹き返した私は、今日一番の雄叫びをあげ、愛のコロシアムへと入場する。

私は、育児でやつれた妻を思いやることも忘れ、自分の存在を誇示しようと全体重で妻に覆いかぶさる。身動きのできない妻は、利き手だけで大の男を意のままに操り、ついに私はマウントポジションを奪われてしまう。
妻はプライドに歯を立てないよう注意しながら、滑らかに私の男を立ち上がらせた。

やかんの水が沸点に達しても、もう私たちの沸騰は止まらない。

外に響くサイレンが興奮を助長し、限られた間取りのなかで、私たちは邪魔者の入らない場所を血眼で探した。

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「パン!パン!」

午前3時、バスルームに響く銃声。
出しっぱなしのシャワー音に紛れて漏れてくるSOSにも似た吐息。
仕切られた防水カーテンに映る影は人でなく、もはやケモノのそれ。
ベッドルームで無邪気な天使が寝息をたてているころ、バスルームでは、爪をたてる女と、男の本能が生き生きとしていた。
ユニットバスの壁に何度も体を打ちつけ、生存確認を繰り返すケモノたちは、湯気とともにベッドルームへと解き放たれる。

寝静まる天使をおこさぬように、私は鈍いモーションで夜をかきまわすと、妻は見たこともない形に曲がりくねっていった。
ベッドのうえで、ぶつかりあう血と骨。
寂しいほど綺麗に散る火花こそ私たちの生き様。
喘ぎ苦しむ音、その生活音を、きっと誰もかき消すことなどできないだろう。

夜泣きの天使が降臨するまでのあいだ、私と妻は出来る限りの罪悪感と背徳感を出し入れした。

愛の磨耗でシーツが泣きながらやぶれていく。
帯びた熱が、ここではないどこかへ行こうとしている。
膨らんでいくエネルギーが「生きたいのか」「死にたいのか」もわからないまま、カウント10に差し掛かる。

二人はまぶたを閉じ、祈った。

「さあ、夜があけるよ。」

私たちの脈は青白い血管を一気に駆け抜け、夜明けに到達する。

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光の毛布、眠りのなか、何年ぶりかの安堵を感じ、私たちは今はっきりと幸せだった。

冷えた乳房を手のひらで温めながら、夕べ見た夢を交互に語る私たち。

その横で微笑んでいる天使に気づき、私はまた少しだけ泣いた。


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