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キュリー夫人世界ver7

 キュリー夫人伝 エーヴ・キュリー 河野万里子訳 白水社を読みながらキュリー夫人世界を描く。

1.少女時代
 天才と呼ばれるようになるキュリー夫人も19才の少女なりに苦しんでいた。ひとり精一杯の力を振り絞り片田舎に埋没しまいと戦っていた。毎晩遅くまで勉強机に向かい工場の図書館から借りてきた何冊もの社会学や物理学の本を読む。父と熱心に手紙をやりとりして数学の知識を増やしていく。指導も助言も何一つ受けられないまま、得たいと望む知識の迷路を手探りで進んでいったのだ。40年後にキュリーはこう書いている。
 キュリーは文学にも社会学や科学と同じくらい惹きつけられていた。けれどこうした勉強を通して、キュリーがほんとうに好きなものを見つけようとしていたこの時期、最後に志すようになったのは数学と物理学だった。キュリーの独学は困難の連続だった。それでも自主的に勉強する習慣は身についたしこの時期に学んだことでのちに役立ったことも少なくない。

 キュリーは久しぶりにかけがえのない環境に落ち着いた。自分自身の家なつかしい父、知性を刺激してくれる興味深い会話。だがこの上ない喜びをもたらしたなにより大きな出来事はキュリーがはじめて研究所に入ったことである。
 電気計や試験管や精密天秤からはなれるのを名残り惜しく思いながら夜遅い時間に家に帰る。キュリーの天職だと想う。研究所の試験管を持ちながら父の実験機器を思い出し切れかけていた人生の糸を結び直していた。

2.大学
 フランス共和国 理学部 第一学期 1891年11月3日ソルボンヌにて開講。
 キュリーは1ルーブルずつ貯めてきたささやかなお金を払って講義を聴く権利を得た。掲示には複雑な時間割が示されており数えきれないそれらの講義のなかから好きなものを選べる。また実験室の席も確保することができた。そこでは指導や助言を受けることができひとりで暗中模索することなく機器をあつかったり簡単な実験を成功させたりできるのだ。こうしてキュリーは理学部の学生になったのである。

 勉強!とにかく勉強!心身ともに勉強に没頭しその進み具合に夢中だったキュリーは人類が発見したこと全てを身につけることができそうな気がしていた。出席していた講義は数学と物理学と化学。実験における手先の要領やテクニックにも少しずつ慣れてきた。やがて教授からほんのささやかな研究をまかせられるといううれしいできごとがあった。たとえ研究自体は取るに足らないものでも教授に器用さと独創性をアピールできるいいチャンスだった。広く天井が高く中二階の廊下につづくふたつの小さならせん階段が風変わりなアクセントになっている物理実験室でキュリーは自分の力を試した。集中力がみなぎり静寂が支配するその雰囲気を実験室の独自の空気をキュリーはたちまち情熱的に愛するようになった。そしてそれは彼女が生涯最後の日までなによりも好むものとなったのだ。

 精密機器が置かれたナラ材の机の前に排気フードの前にキュリーは立つ。いつも立って作業する。そばで別の吹管や機器にかがみ込んでいる熱心な研究者と同じようにキュリーもこの場に張りつめた静けさに敬意を払っているのだ。だから物音はたてない。無駄な言葉はひとことも口にしない。やがてキュリーは決心した。ひとつの学士号ではとても足りない。物理学と数学のふたつを手にしたい。

3.結婚
 キュリーは本人の人生設計から恋愛と結婚を除外していた。キュリーはひそやかに科学への情熱に満ちた厳格な宇宙を作りあげていた。26才のキュリーはパリに1人で住み本人の夢が頭から離れず厳しい実験と研究の生活で体はいつも過労気味、ひまなどなかったかわりにひまがもたらす誘惑もなかった。誇り高さと内気さも幸いしていた。世間から切り離されたように無味乾燥な毎日を送っていたポーランド出身の天才女性が仕事のためにひとりでいたというのは驚くことでもないだろう。

 キュリー夫人これが私の新しい名前です。夫になる人はこの学校の教授です。来年は彼をポーランドに連れて行きわたしの国をよく知ってもらおうと思っています。そのときはきっとキュリーのかわいい妹に彼を紹介してどうぞよろしくとお願いする。

 7月26日シャトーダン通りで迎える最後の朝がやってきてキュリーは目を覚ました。素晴らしくいい天気だ。キュリーの顔も若々しく美しい。そこには講義で机をならべる仲間たちは見たこともない新鮮ななにかが表われて輝いている。キュリーは豊かでつややかな髪をまとめ彼女は婚礼のドレスに身をつつむ。ドレスは毎日着ているこの服しかないんです。ご親切にももし一枚くださるというのでしたら地味で実用的で結婚式で着たあとは実験室に着ていけるようなものをお願いします。そこで姉がダンクール通りの仕立て屋を連れてきてキュリーにとてもよく似合い若々しさが映える紺のウールのドレスと水色のストライプが入った青いブラウスをしたせたてたのだった。晴れの日の細かな点に至るまでありきたりの結婚とはちがっているのがキュリーは気に入っていた。白いウエディングドレスもなければ金の結婚指輪もなし披露宴もなし。神の前で誓う式もなし。ふたりは無一物だからいとこが送ってくれたお祝い金で前日に買った2台のぴかぴかの自転車でふたりは夏の間フランスの田園地帯をかけめぐることになる。形式だけの社交とか詮索とかねたみといったものがどこにもないあたたかな結婚式だった。

4.ラジウム
 キュリーは若い主婦として家を管理し小さな娘の世話をしなべを火にかけつづけた。そうして物理化学学校の実験室では女性科学者として近代科学のうえでもっとも重要な発見を成しとげることになる。
 ふたつの学士号、中・高等教育教授資格、焼き入れ鋼の磁化についての研究論文。以上が出産後まもなく仕事に復帰したキュリーの1897年の終わりにおける経歴だった。

 次のステップは博士号である。可能性が豊かで独創的な研究テーマを選びたかった。そこで物理学の最新の研究をひとつひとつ検討して論文のテーマを探した。このたいせつな検討に夫の意見はおおいに参考になった。なにしろ彼はキュリーの実験室の室長でありキュリーの指導教授でもある。より多くの経験を積んだ年長の物理学者でもある。彼のかたわらではキュリーは本人を弟子のように思っていた。

 この検討にはポーランドで生まれ育ったキュリーの性格や本来の性質が大きく影響したのは言うまでもない。キュリーには子供の頃から開拓者のような好奇心と大胆さがあった。森をハイキングするときもキュリーはだれも歩いていない小道や人の手の入っていない道をいつも進んでいく。それはちょうど大きな旅に出ようと考えている旅行家に似ていた。世界地図を見つめはるかな国の想像力をかき立てられる変わった名前を発見すると他のどこでもないその地に行こうと即座に心を決めてしまう。

 最新の実験研究の報告書を見ていたキュリーは前の年に出たフランス人物理学者アンリ・ベクレルの研究報告に目を止めた。その研究のことはすでにキュリーも夫も知っていたがもう一度いつもの細心さで読み返し調べてみることにした。
 キュリーはベクレル線に非常に興味を覚えた。たしかに微少ではあるがウラン化合物が放射線としてたえず発するこのエネルギーはいったいどこから生じるのだろう?そしてこの放射線はどのような性質を持っているのだろう?これは博士論文の素晴らしい研究テーマになる。まだだれもこのウラン光線の研究を掘りさげてはいない。

 博士号にむけてキュリーが最初にめざしたのはウラン光線のイオン化力、つまり空気を電気の伝導体として検電器を放電させる力をはかることだった。用いた方法はすばらしくそれこそが実験成功の鍵となるのだが使った機器はすでに別の現象を研究するためキュリーがよく知っている物理学者ふたりが発明したものだった。キュリーは電離箱とキュリー電気計と水晶板ピエゾ電気計を組み合わせた装置を作ったのだ。

 何週間すると最初の結果が出た。このウラン光線をキュリーが深く理解すればするほど奇妙でその本質はいまだ知られていないもののようなのだ。なにも似ておらずなにも影響されない。測定することのできる力はわずかだが目をみはるような個性を秘めている。そして不可解なこの光線は原子の特性を持っている。この現象はウラン固有のものではなくきちんとした名称を与える必要がある。キュリーは放射能という名称を提案したのである。ウランやトリウムのように特別な斜光を持つ元素は放射性元素と呼ぶことにした。

 放射能はその物に含まれるウランやトリウムの量からふつうに予想されるよりもはるかに強かったのである。このけたはずれの放射能はどこから生じるのだろうか?可能な説明はただ一つ、それらの鉱物は微量ながらウランやトリウムよりもはるかに強力な放射性物質を含んでいる。今日まだ知られてはいない元素新しい元素である放射性物質を含んでいる。

 キュリーは次のように話した。人生はだれにとってもやさしいものではない。でも大切なのは忍耐力となにより自信を持つこと。人はみななんらかの天分に恵まれているもの。そしてその天分はどんなことがあっても花開かせるべきもの。そう信じなくてはなりません。

 この天分とはキュリーの場合科学の分野で思いもがけない新しい道を切り開くことだった。こうしてキュリーはウラン鉱のなかに強力な放射能を持った新しい元素が存在する可能性があると発表した。これは科学アカデミーに報告され1898年4月12日の例会の報告書に掲載された。以上がラジウム発見への第一の段階である。 

5.研究
 直観という才能によってキュリーには未知の物質があるにちがいないことは明らかだった。そしてその存在を公表もした。だがまだその正体は謎のままだ。今度は実験でその物質を分離し仮説を実証しなくてはならない。その物質はたしかにある。キュリーは見たと発表できるようにしなくてはならない。

 最初の目標は純粋なラジウムとポロニウムを得る事だった。科学者の手で準備された最も放射能の強い生成物でもこのふたつの物質は感知できないほどのこんせきを残すかどうかだ。それを単離させようというのだから莫大な量の原料を処理するひつようがある。1年目にキュリーはラジウムとポロニウムの化学的分離に取り組み得ることのできた放射性物質の放射能を研究した。こうして1902年ラジウムの発見をキュリーが公表してから45ヶ月後ついにキュリーはこの消耗戦に勝利をおさめたのである。純粋ラジウム一デシグラムを作ることに成功したのだ。そしてこの新物質の原子量をはじめて測定もした。225だった。ラジウムは正式に存在することになった。

 ラジウムは人類幸福のためになる。凶悪な病がんと闘う味方になる。新元素の抽出はもはや実験上の興味には留まらなくなった。欠かすことのできない有益なものとなった。こうしてラジウム産業が生まれることになる。キュリーはこの産業の誕生を世話した。キュリーは考え出した方法によりラジウム1グラムをつくり日の目を見させたのだ。ラジウムの特性は人々の想像力をかきたてキュリーは効率的な協力を得ることになって大規模に生産を進められるようになった。

 キュリーは放射性物質についての研究という研究論文を博士号試験を受ける為に論文審査の教授達に提出した。キュリーが論文のテーマに取りかかってからすでに5年以上もの歳月が流れていた。
 キュリーは3人の審査委員の質問に答える。黒板にチョークで装着の図や重要な数式や公式を書く。やがて審査委員長の教授が正式告げた。パリ大学はキュリーに優の成績にて物理学博士の称号を授けます。

 この博士論文の口頭諮問が行われる前にキュリーはウランを鈍化してラジウムを単離する技術を編み出し製造方法を作り出した。
 キュリーは言葉を伝えた、物理学者はつねに自分の研究を全面的に発表するもの。キュリーの発見に産業的な未来があるとしてもそれは偶然だしキュリーが利用してはいけない。ラジウムは病気の人たちの治療に役に立つそこから利益を引き出すなんてキュリーにはとんでもないことに思える。

 この言葉はラジウム産業にとっておおきな恩恵となり外国で自由な発展が可能になった。そして科学者や医師達は必要としている製品を手に入れられるようになった。ちなみにこの産業は今日でもキュリーが示した方法をほぼ変えることなく用いている。

6.栄光
 キュリーの功績にふさわしい地位をはじめて申しでたのがスイスなら、はじめて名誉をもたらしたのはイギリスだった。
 オーケストラの指揮者が棒を振り上げたのは今度はスウェーデンからだった。1903年12月10日の公式総会でストックホルムの科学アカデミーはその年のノーベル物理学賞を放射能の発見によりアンリ・ベクレルとキュリー夫妻に授与すると公式に発表したのである。
 キュリーの名は今や世界にとどろいていた。キュリーは金銭面では豊かになったが幸福な時間は減ってしまった。特にキュリーはさまざまな熱意や喜びを失っていた。科学的な思索にも夫と同じほど没頭することができない。毎日起きるできごとで神経がまいっていたのだ、うまく適応できなかった。ラジウム発見とノーベル賞受賞を祝う大さわぎにいらいらさせられてキュリーの毎日に影を落としていた心配ごと夫の病気からも気をまぎらわせることができなくなっていた。

 キュリーが居間の入り口に姿を現した、だが友人たちのうやうやしすぎる態度を見てばく然とむごいあわれみのしるしを感じとったのだ。友人が事実を告げた。キュリーはあまりにも凍りついてうめきもせず泣きもしないまるで死んだように麻痺しておがくずで作った大きな人形のようになってしまった。
 長い沈黙がつづいたあとかすかにくちびるだけが動いた、低い声でキュリーはたずねた。夫が死んだ?ほんとうに死んだの?突然の惨事がキュリーを永遠にかえてしかう。
 夫が死んだというひとことがキュリーの意識に届いたその瞬間からキュリーの肩には永遠に孤独と秘密の衣がかけられてしまったのである。そして4月のこの日以来キュリーは寡婦になると同時に二度ともとには戻らない痛ましい孤独の人となったのだ。

 キュリーがキュヴィエ通りの建物に入っていく。とても青白くとても細身で顔にはわずかにしわが現れはじめ金髪は急速に銀髪に変わってしまっていた。それでもフックからざっくりした生地の仕事着をはずすと黒いドレスの上にはおって仕事を開始する。
 教授としても研究者としてもそして実験室の室長としてもキュリーは驚くべき密度の濃さで仕事をした。ソルボンヌで1908年に正教授に任命されて世界初の放射能についての講義を行なった。

 キュリーは新しい研究プログラムに取り組んでいた。そうしてひそかに健康がむしばれていたにもかかわらずそれをりっぱに進めていった。
 キュリーはエマナチオンの測定によってラジウムの含有量を決めるという方法を発見した。すでにラジウム療法は世界的に広まっており貴重な物質ラジウムはごくわずかな量まで厳密に分離できるようになる必要があった。だがミリグラムの何千分の一という単位が問題になる世界でははかりなど役には立たない。そこでキュリーは放射性物質がはなっている放射線によってその物質をはかることを考えたのだ。この難しい技術を開発して実験室で測定サービスも始めた。科学者や医者、一般の人までが放射性鉱石や製品をここで検査してもらいラジウムの含有量を表示した証明書を受け取ることができるようになった。
 キュリーは一般にも重要な仕事を成し遂げた。放射能測定の基準となる初の国際ラジウム原基を設定したのである。二十一ミリグラムの純粋塩化ラジウムが原基の原型として役立つことになる。

 1911年の12月ストックホルムの科学アカデミーが夫亡きあとのキュリー夫人の輝かしい業績を認めてノーベル化学賞を贈ると発表した。男女を問わずこのような栄誉を二度も受けるに値するとされた受賞者はそれまでもそしてそれからもキュリーのほかに1人もいない。それに続くものは50年以上現れなかった。

7.実験室
 大学とパスツール研究所がそれぞれ40万金フランを共同出資してラジウム研究所を創設する。研究所はキュリーの指導のもとに置かれる放射能実験室と生物学的研究やラジウム療法の研究を行う実験室のふたつの部分から成るものとし後者ではすぐれた医師であり学者である教授ががんの研究と患者の治療を行う。この一対の実験室が協力しあって研究を進めラジウムの科学を発展させていく。

 フランスの非常事態に遭遇してキュリーのなかでふたたび直感と行動力を用いて現実に対応した。ただちに救護設備の編成について資料を集め改善点を見つけた。戦場でも後方でも病院にX線設備がほとんどなかった。
 キュリーは戦争が長びいて多くの人命が奪われて負傷者を現地で手術する必要がある。放射線治療車が現地で引っ張りだこになって大変な貢献ができることを予測していた。
 ラジウムはX線同様人体にさまざまな治療効果をもたらす。キュリーは1グラムのラジウムをエマナチオン供給にあてた。1週間ごとにラジウムからそのガス、エマナチオンをしぼり容器に入れてふたをし大きな病院に送ったのである。それは悪性の傷あとや皮膚の損傷に役立った。放射線治療でもまだじゅうぶんではなかった。
 1916年から18年のあいだにキュリーは放射線医学の看護婦150人を育てた。フランスの同盟国もキュリーに援助を求め1918年には北イタリアで放射性物質の資源を調査するという使命をはたした。さらにアメリカ軍兵士にも放射能の初歩を教えたりした。 
 冷ややかでよそよそしいところもあったキュリー夫人だが負傷者たちにはこの上なくやさしかった。レントゲン装着におびえて検査は痛くないのかとたずねたときは大丈夫、写真を撮るようなものですよと安心させた。

 休戦を知らせる砲声が鳴り響いたときキュリーは実験室にいた。キュリーにとって勝利はひとつではなくふたつだった。祖国ポーランドが灰からよみがえり一世紀半におよぶ隷属状態からふたたび独立を取り戻したからだ。

 キュリー夫人いらっしゃいますか?実験室の白衣を着た若い男女がラジウム研究所につづく玄関ホールで口々にそうたずねあっている。キュリーが毎朝通る道に5人10人と研究員たちが集まってくる。キュリーにアドバイスをもらう評議会と呼ばれるものがその場に出来上がる。
 40年間苦労しながら科学の仕事をしてきて今や白髪になった女性科学者は膨大な知識を蓄えていた。ラジウムについてキュリーは生きた辞書だった。完璧に自由になる5ヶ国語を通して研究所で進行中の実験に関する刊行物はすべて読んでいた。さまざまな現象について新しい面を発見しいろいろなやり方をくふうした。そしてなにより公正な判断力があった。

 キュリーは研究員の原稿を読む為非常に明るいがありふれたせまい部屋に行く。両袖のついたオークの机、書類戸棚、書棚、古いタイプライターが一台に、革張りの椅子が一脚だけ。それらは品位のようなものをかもしだしている。
 机の上には大理石のインクつぼ、うず高く積まれた小冊子の山、万年筆やとがった鉛筆を立てたペン立て。キュリーにアカデミーへの報告を差し出す研究員の手は気持ちの高ぶりから震えていることも多かった。審査が厳しいことをみなよく知っているからだ。キュリーは内容上の誤りをチェックするだけでなく文章全体を書き直して修正する。こうすれば良くなると思いますと言って生きた心地もしない若き学者に原稿を返す。だが、教え子の仕事が満足のいくものだとにっこり笑ってうれしそうにたいへんよくできています、申し分ありませんと評してその苦労に報いる。おかげで研究員はラジウム研究所の報告としてアカデミーに提出する翼をもらった心地になる。

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