マガジンのカバー画像

[SS]アジア人外交官の憂鬱

75
清朝の終わり、東アジアが近代化を迎えると、私は北京に外交官として赴任した。北京で欧米諸国の中国への植民地化を目の当たりにして、私は日本の国家成立に向けて、明治維新への歩みを見届け…
運営しているクリエイター

2024年6月の記事一覧

会津藩を降伏させて東北地方を平定、函館の五稜郭への立てこもり抗戦も降伏して、戊辰戦争は終わりを告げた。1868年9月、新政府は元号を明治と改めた。幕末から明治初期にかけての変革を明治維新と呼ぶ。明治政府の近代化の重要な課題は、欧米諸国の制度・技術を導入して、近代産業の育成だった。

徳川慶喜は幕府の立て直しを図ろうとしていたが、新政府への流れを止める事はできずに、鳥羽・伏見の戦いで、余力があるのに大阪城から江戸へと身内だけを連れて敗走した。東北の同盟軍は馬鹿将軍と言い合ったが、自分達は徳川の為に働くと決めていた。しかし、慶喜は敗北を認め、江戸城を明け渡した。

父は長崎の出島でオランダ通訳をしていたが、浦賀へのペリー来航以来、横浜に移り居住し出した外国人商人と政府との外交通商をする様になる。英語へと必要な言語も変わり、父は古来より日本の文化・風習は中国との交易により時代の流れを理解していたが、これからの時代を読むには欧米へとシフトする。

私も50才を過ぎ、体力の衰えは感じませんが息子も成人を迎え時間の経過を感じずにはいられません。妻と3人で穏やかに暮らせる事に感謝しています。これからも外交官として日中韓の近代化の歩みを朝鮮日報で紹介して、歴史書の執筆を続けていきたいです。将来的には父の仕事を継続したいと思います。

太平天国から洋務運動の流れを歴史書の二つ目の区切りにします、日本の改革・明治維新も説明する。私は女優である妻と北京で生まれた京劇を堪能しました。二人が北京で初めて出会った日、妻は舞台の上で京劇を踊っていて、余りの美しさに私は言葉を失ったのです、それから30年の月日が流れています。

中国の京劇は人々の日常の生活を題材に、筋書きにも深刻な葛藤はなく、激しい動作もなく、唄を中心に捉えた文劇の範疇に属する芝居、武劇は立ち回りと武芸を主として、中国の伝統的な武術の中から様式化された動作を取り入れ、武術と舞踏を一体化させたものである。中国の政治等、不安要素も関係した。

私は妻に西太后が俳優を人と思わぬ所があると、人間性の欠如を伝えた。演目を確認すると、覇王別姫という、覇王・項羽の為に剣舞を舞う、愛妃との悲劇を唄った、永遠の愛を演じる作品が西太后にあっている気がするのです。四面楚歌の項羽の姿が西太后と重なります、愛妃の剣舞が心に愛を伝える筈です。

西太后は京劇の演出も自分で行い、歌詞を書いてメロディもつけた。その時代を代表する京劇の俳優達も、西太后が書いた唄を目の前で歌わなければならないので、その良し悪しを上手く立ち回る必要があった。役者達も西太后を満足させる為に、歌のふし回しの技術に磨きをかけて京劇の先生となる者もいた。

妻が西太后の前で京劇を踊る事になったと話した。西太后の京劇好きは、清民の間でも有名であった。政治的には権威を振るっていた彼女も、日常生活では、新しいものを好み、宮廷演劇についても同様でした。西太后はその時代の俳優達の激賞を惜しまなかったが、政治と趣味にきちんとけじめをつけていた。

清朝の実際の政務を握っていたのが西太后です、地方の高級官僚と共に、自強運動を行います。この自強運動は洋務運動とも呼ばれて、西洋の科学技術を取り入れることにより、中国を強く、豊かにする為のものでした。1960年代に始まり、30年間続きました。中国は安定して、中興と呼ばれていました。

私は父に宛てた手紙の中で、清朝がいつまで持つか分からないが、日本との間に戦が起こるのは間違いない事だと思うと認めた。父も日中に新しい時代が来る為には、通らなければ行けない道かも知れないと話し、私は朝鮮・中国・日本で戦火が広がり、やがて西欧世界と本格的に衝突するのではないかと思う。