『ボートの三人男』のヤカン
ジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』は長年の愛読書です。最初に中公文庫を購入(現行のと表紙の絵が違う)して初めて読んだあとあまりにも気に入ったため、原作のペーパーバックを買って挑戦したが難しくて断念、英語学習者用のGraded Readers版も買い、数年前に新訳が登場したのでそれも読んだ。
初めてロンドンに行ったとき、Tavistock Squareあたりを歩いていたら、たまたまジェロームの名前の入った銘板(ブルー・プラーク)を発見し、感激!1884年から85年にかけて、その建物にジェロームが住んでいたという。なお、同じ建物にレーニンも住んでたことがあるらしく、レーニンの名前のプラークもあった。
次にロンドンを訪問した際にはきちんと下調べをし、もう一箇所、ジェロームの銘板のある場所までバスに乗って出かけていった。かなりテムズ川に近い、チェルシーのこちらのアパート。
かの名作はここで生まれたのだ!
最寄りのバス停からここまで歩いていく途中に、赤い電話ボックスがあったのだが、おじいさんが散歩させていた白く大きな和風の犬が、派手におしっこをひっかけていたので爆笑してしまった。こちらに気づいた飼い主のおじいさんが話しかけてきた。犬はアキタでとってもいい子だという。good boyを連発していたほかは、おじいさんの特徴的な訛りと歯抜けのせいでなにいってるかほとんどわからなかったが。
『ボートの三人男』にはおかしなエピソードが満載で、船旅に出る前の準備の段階から大騒ぎ。何を持っていくかでひと悶着あるし、大荷物を抱えて出かけようとすると近所の人に大騒ぎされるし。出先ではどうしても缶切りが見つからなかったり(でもその後で鮭缶をアイリッシュシチューに入れたとある…缶切りは出てきたのか?)、ボートに幌を張ろうとしてうまくいかずにひとり姿を消したり。三人の男たちの過去の武勇伝(というか失敗談)もいろいろ披露される。
そもそも、出かけようという話が出るまでのうだうだした三人の会話からしてもうおかしくてお腹が痛い。ジェロームは、友人たちと実際にテムズ川を旅した記録をもとに、テムズ川周辺の風景と歴史について紀行文を書こうとしたのであって、笑える話を書くつもりじゃなかったというのだが、それでなんでこうなるのか(笑)以前、この本の「笑えるところ」にポストイットを貼っていったら、気持ち悪いくらいビラビラになってしまったことがある。
このお話はアウトドア活動が肝なので当然いろんな道具が登場するが、私が特に気に入っているのはヤカン。丸谷才一訳では「湯沸し」、小山太一の新訳では「ケトル」となっているが、ヤカンじゃだめなんだろうか。「湯沸し」では沸かす機能がついていそうだし、「ケトル」だと洒落た雑貨屋で売ってるやつみたい。でも、この三人が持っていくのは、独身男の家で普段使ってる実用本位の無骨な「ヤカン」だと思うのだが。
ヤカンの登場シーンはいくつかある。長々と引用してそのおもしろさを語るのは野暮なのでやらないが、ひとつめは「早くお茶を飲みたいと思っているとなかなかお湯が沸かない」というくだり。自分もお茶が好きなのだが、たしかにお茶のために湯を沸かすとき、ヤカンの前で待ってるとものすごく時間がかかるような気がしてイライラする。ぜんぜん別のことをやりはじめると、「もうちょっと待っててよ」というタイミングでグラグラに沸く。こんな当たり前のことを、長々と文章で説明しているのがたまらなくおかしい。
さらに、ヤカンと犬のモンモランシーの絡みもある。ときに音をたて、湯気を出すヤカンが、やんちゃなモンモランシーは気になって仕方がない。いつも喧嘩をふっかけるスキを狙っているのだが、いまこそというときに誰かが来てヤカンを取り上げてしまう。あるとき、意を決してヤカンに挑戦するのだが…モンモランシーは当然ひどい目にあい、その後はお茶の時間のたびにボートから退却、お茶がすむまで岸で待つことになる。
モンモランシーにとってのヤカンを生き物のように、そしてモンモランシーの気持ちも擬人的に描写していて、「盛り」すなわち誇張の加減もほどよい。モンモランシーがこの旅に同行していてよかった!
『ボートの三人男』("Three Men in a Boat")はユーモア小説の古典であり人気作品なので、いろんな装丁の本が出ているが、この文章のために改めて調べていたら、こんな表紙デザインの本をみつけてしまった。モンモランシーとヤカン!本文中にもかわいいイラストがあるのだろうか…ほしい(もういらないけど)。
このイラストの、まるっこいおおきなヤカンがいいなぁ。幼稚園のとき、お弁当の時間になるとこんな形のヤカンに入ったお茶が各教室に届けられたものだ。ジェロームたちが持っていったのはまさにこんなヤカンではないか。ケトルってイメージじゃない。
気になるのは素材だが、外に持ち出して直火にかけるのだから、素材はシルバーではなかろう。銅とか、真鍮とか、錫とか、そのあたりだろうか。
そこで、映像化作品を探してみることに。まずはこちら。1975年のBBC作品。スティーブン・フリアーズが監督している(詳しくはこちら)。
ヤカンのエピソードはこの映画では採用されていないが、お茶を淹れようとしたら水を切らしていて、水をもらいに行くと川の水を汲めといわれる場面あたりでヤカンが何度か写る。銀色の大きなシンプルな形のヤカン。上の絵のように丸っこくなく、円柱型。銀色なので真鍮か錫と思われる。焚き火にかけて使ってるのに煤がついてなくてけっこうぴかぴか(笑)。
下の写真はそのシーンのスクリーンショット。赤い帽子の男性が右手に持っているのがヤカン。左手に抱えているのが水を入れておく瓶のような容器。
この映画のモンモランシーは、黒っぽいむくむくした犬だ。モンモランシーはフォックステリアのはずなのだが、こんなフォックステリアもいるのかな…そういえば、上の本の表紙のヤカンをくわえた犬もフォックステリアではなさそうだ。
次は1956年の映画。こちらはかなり自由にエピソードを追加しているようだ(詳しくはこちら)。
こちらでも似た形のヤカンが登場。ただし黒っぽい。煤けたのか、暗いからか。
どうやら私の持っているOxford Bookworms Libraryの表紙の写真はこの映画からとっているようだが(下の写真の左)、表紙デザイン手前の方にはめ込まれている写真のフォックステリアは映画に出てくるやつと違う個体のはず…映画の中の犬は小柄で、毛が長めでくりくりしていて、ものすごくかわいい。
とにかく笑える、ユーモラスな話と思って『ボートの三人男』を再読していたが、こうして映像化されているのをみると、この船旅のなんと優雅でのんびりしていることか。
三人とも、ヘタレなのでわりとすぐにアウトドア生活に飽きて汽車でロンドンに戻るのことになるのだが、小さなボートに犬と一緒に乗ってぼんやりと旅している様子の自由さといったら!あのように川の上でぼんやりと風に吹かれたり、葦の茂みでお茶したりしたいと切実に思う…
なお、『ボートの三人男』には続編ともいうべきものがあり、そちらは同じ三人組が自転車でドイツを旅する話らしいので、ぜひ読みたいと思っているのものの、翻訳が出ていないためなかなか手が出ない。いつか挑戦せねば。
日本語で読める『ボートの三人男』は下記の2冊。なお、ヘッダ画像はBBCによる同作品のラジオドラマのサイトから拝借した。(BBCは『ボートの三人男』を現代に翻案したドラマも制作したらしい。英国ではいまだに大人気なのだなぁ。)
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