「よその国」への旅が私に与えてくれるもの
街に早すぎるクリスマスの空気が漂い始めた11月の終わり頃、私はひとり、ミラノへと旅立った。
別にこの季節にもミラノにもこだわりはなかった。
「旅に出よう。」
そう思って航空券を調べた時、Googleが教えてくれた一番安いヨーロッパ行きのチケットが、この日、この場所へ向かうものだった。
「2週間ひとりで外国に行く」という私を見て、「女の子ひとりで危なくないの?」と周りの人は心配したけど、結果的に危なくはなかったし、危なくても良かった。
ひとりで遠くに行きたかった。
放っておいてほしかった。
学歴とかスキルとか「一般的な27歳の女性」に求められるイメージとか、そういうものを全部とっぱらいたかった。
折角入った「稼げる仕事」を辞めてしまったことも、女で浪人までして「良い大学」行かせてもらってフリーターしていることも、もう全部全部鬱陶しくて、いっそ全部なくなってくれればいいのにと思った。
肩書きを、ぜーんぶ捨てて、ただただ「若そうな東洋人の女性」というぱっと見でわかる情報以外押し付けてこない人たちのなかに、静かに、ちょこっと気づいてはもらえる程度に佇んでいたかった。
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旅は、私を自由にしてくれる。
「良い」学校出てるのに、とか、稼げるスキルもってるのに、とかいう無責任な「もったいない」からも、いい歳なんだから、なんて乱暴な「常識」からも、開放してくれる。
肩書きは便利だ。知っていそうなこととか、興味がありそうなものとか、得意そうなものとか、そういうものを大した説明なしにそれなりに正しく伝えてくれる。
でも、それはあくまでも「それなりに」でしかない。
それぞれの肩書から連想される一般的なイメージそのまま、なんて人は多分ほとんどいない。
みんなそれぞれその人らしさがあるし、中にはそうしたイメージと正反対の人もいる。
肩書きから連想されるイメージはその人を知る入口にはなるけど、決してその人そのものではない。
「よその国」への旅はそういう常識や肩書きから解放してくれる。
私が何をしている人なのか、みんな知らない。
私のこれまでなんて誰も知らなくて、どうでもよくて、「あるべき」姿なんてものもない。
どこに行こうが、何をしようが、誰かに迷惑かけない限り文句を言われたり口出しされることはほとんどない。
周りのことを気にせずに、自分の行きたい場所、やりたいことに向かっていける。
気楽で、身軽で、自由だ。
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別に日本にいたって、他の人に迷惑さえかけなければ、自分のいたいように、やりたいようにすればいいと思う。
でも、なかなかそれができないのだ。少なくとも自分は。
幸い今の環境はみんなが「そのままでいいよ」「自由にやっていいよ」と言ってくれるので、窮屈に感じることもなく、依然のように衝動的に「よその国」に行きたくなることはなくなった。
でも、やっぱり時々「何者でもない自分」になりにどこか「よその国」に行きたいなと思うことがある。
次に安心して「よその国」に旅立てるのはいつになるのか分からないけど、行けない期間が長い分、思い切り羽を伸ばして楽しめるように、やりたいこととか行きたいところをためておこう。
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