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FIREした理由②就職活動での葛藤


「プチうつ状態」の大学生活

東北の小さな田舎町から、東京の国立大学に入学したものの、受験でのストレスがたたり「プチうつ状態」で学生生活をスタートすることになりました。
その当時は、メンタルヘルスに関する社会の理解は今よりもかなり低く、「抑うつ状態」は単なる「怠け病」と言われ、自分でもそのように思っていました。

私の症状としては、外出や人との関りが億劫になるというもので、不眠や食欲不振などは無かったので、傍目からは、ただの出不精で暗い人間という程度の印象だったと思います。
ただ、自分の中では、人間関係において「不安感」を抱いている状態が続き、「馬鹿にされているんじゃないか」とか、「陰口をたたかれているんじゃないか」という軽い妄想があり、積極的に人と関わることを恐れていました。
このような状態だったので、大学ではサークル活動や部活動には参加せず、授業以外ではほとんどアパートに引きこもっていて、休日には一日中誰とも口をきかないということもありました。

「プチうつ状態」は夏休み前まで続きましたが、大学生活に少しずつ慣れてくると、徐々に人付き合いも増え、1年生の夏にはアルバイトで接客が出来るくらいにまで回復しました。
その後の学生生活では良い友人も出来、大きなストレスも無かったということもあり、時々気分が塞いで引きこもることがありましたが、生活に支障が出る程ではありませんでした。
そして、大学3年生の後半から就職活動をスタートしました。

就職活動

私のように田舎から東京に出てきた学生は、就職先を考える際に、実家周辺で勤務出来るところを選ぶか、全国に転勤する可能性があるところを選ぶかでとても迷います。
大学の友人と話しても、親から地元に帰るように強く言われて悩んでいる人もいましたが、私の場合は気楽な次男坊だったということもあり、好きにして良いという感じでした。
当時は就職氷河期と言われる時期で、地方の田舎町に帰ってもろくな民間企業の就職先が無く、公務員や教員の人気が異常に高い状況で、公務員になるためのダブルスクールが流行り始めた時期でもありました。
東京の生活に慣れてしまっていた私には、当然のことながら、東北の寂れた地方都市に戻るという選択肢はありませんでした。

その頃は、山一證券が破綻するなど金融不況でしたが、ITバブルの時期でもあり、旧態依然とした大企業よりも、ベンチャー企業がもてはやされる風潮がありました。
起業にチャレンジする人も増え始めていましたが、「プチうつ状態」の私には、ベンチャー企業を立ち上げるようなストレスがかかることは、思いも寄らない世界の話でした。

就活しなければならないというプレッシャーはかかるのですが、自分の中では生活環境が大きく変化する就職を非常に恐れていて、出来ればこのまま学生生活を続けたいという、モラトリアムの意識が強かったです。
しかしながら、大学院に進学するほど学問に打ち込みたいという気はさらさらありませんでした。
出来ることなら、小説家やフリーライターのように、組織に属さず自由気ままに活動できる仕事がしたいという願望がありましたが、そのために勉強したり、作品を書いてみるという努力はしませんでした。

このような単なるモラトリアム志望で、特に何かになりたいという強い将来像を持っていなかった私は、就職氷河期の厳しい現実に曝されることになりました。
「プチうつ状態」で出不精の気味の私が、説明会や面接でたくさんの人と接する就職活動は、精神的にかなり厳しいものでした。

色々企業を回って見る中で、私は「プチうつ状態」の再発を恐れ、対人的にあまり大きなストレスがかからない職種が良いと思うようになりました。
ベンチャーのような勢いがある企業の場合、過密な人間関係の中で疲弊してしまうのが怖かったので、社員へのサポート体制や、教育体制、福利厚生面がしっかりした会社を選ぶと、どうしても歴史が古く規模の大きな企業になってしまいます。
ただ、その頃の大企業は採用数をかなり絞り込んでいたので、なかなか内定をもらえませんでした。
4年生の春先には大学の友人が次々と志望先から内定をもらい始めてかなり焦りましたが、周囲の友人から1ヶ月くらい遅れて、何とか東京に本社があるメーカーに事務職として採用してもらうことが出来ました。

慣れない西日本での社会人生活

無事に大学を卒業し、入社直後に配属されたのは、西日本の工場での総務部門の業務でした。
そこは風光明媚な小さな町でしたが、企業城下町になっていて、住民の多くが配属先の工場と何らかの関わりがある閉鎖的な場所でした。

仕事の内容はかなり緩いもので、ほとんど残業もなく時間的にはゆとりがありましたが、不況のあおりを受けて会社の業績が悪く、リストラも実施されていました。
新入社員の私は、直接リストラの対象となることはありませんでしたが、ボーナスや残業代も低く抑えられていたこともあり、悶々とした気分での社会人生活のスタートでした。

元々東北の小さな町の育ちなので、田舎暮らしは慣れていましたが、企業城下町という閉鎖的な風土には慣れず、1年も経つ頃には会社生活が嫌になってしまいました。
この時は、FIREという言葉はまだ世間でも登場していませんでしたが、入社したばかりの私は、早々に会社を退職することをぼんやりと夢想するようになっていました。
閉鎖的な田舎町で、あまり楽しくない仕事をしたせいで「プチうつ状態」気味になることが何度かありましたが、幸い2年目で本社に転勤する内示が出たので、何とか頑張って耐えることが出来ました。

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし


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