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クミが聖書から学んだこと

はじめに

聖書系Vtuberの足袋田クミです。この記事では、私が聖書を読んで自分なりに得た学びについて共有します。拙い者でありますし、未だ聖書を全部理解できたとは露ほどにも思わないのですが、皆さまと意見を交換できればと存じます。自分とは理解が違うと感じられる場合も、私とのスタンスの違いを測ることでご自身の理解の助けにしていただければ良いかと思います。

随時、下の動画で喋ったことを思い出しながら書きます。

ユダヤ民族の記憶

民族が生き残るために何が必要だったのか

ユダヤ民族史とも言える旧約聖書の書物群、その最初は天地創造から始まります。もちろん、より古い歴史を持っていることはその民族にとって大きな強みでしょう。それは彼らにとって存在肯定になります。

創世記を読んでみましょう。カインとアベルの話は、狩猟採集と農耕の対比に聞こえます。それはレメクなどその後の系図を見ても尾を引いている話題です。そこに土地を持っていて、定住しており、農耕を営んでいることが民族のアイデンティティになるかもしれません。

神に約束の地を示されることでそれはさらに強固な動機となります。カナンの地に住むこと、それがユダヤ民族のひとつの大きな目的です。それは聖書の編集時代がバビロン捕囚の後にも大きく広がっていることと結びつけて考える必要があります。離散してしまったユダヤ民族が、自分たちはどこにでも住むことができる民族なのではない、という理由付けを聖書からしているということを押さえておきたいのです。

過去の入植時代の戦争も肯定されます。ヨシュア記はその様子を、神の助けを得て奮闘する歴史として描きます。神に従うこととカナン入植はセットであり、そこでの生活が祝福されることともつながっています。誰しも、自分で選び取った土地がよくないものだとは思いたくないでしょう。

ユダヤ人として聖書を読むなら、やはり聖書は「私たちはここで生きていていいんだ」という叫びとして大きな意味を持っています。神に与えられた土地で、神にエジプトから救い出され、神に後押しされて土地を取得し、神の守りの中で宗教祭儀を執り行う。それも、他の神々ではないヤーウェとか主とか呼ばれる、あのイスラエルの神により頼むことによってそれが成り立つわけです。

民族としての歴史がないといけない。物語があって、それが共有されていて、生存について肯定してくれる背景とか神がいなければならない。厳密にどういった条件がユダヤ民族を生存させたかとか、そもそも古代史上でユダヤ民族を定義したりすることができるのかなどは、考古学の範疇ですし私の手には負えません。しかし、その是非を抜きにして、ユダヤ民族が自分達をどう捉えようとしたか、どう表現しようとしたかが聖書の一翼を担っているのではないでしょうか。

どの国の、民族の歴史でも同じことでしょう。「私たちはどう生きてきたのか、どう生き延びてきたのか」の記録、その自己理解が聖書です。エジプトからの脱出を経てカナンに侵入し、ペリシテ人、モアブ人、バビロンなどを敵とし、建国・分裂・滅亡を経験したのち律法を掲げて離散を乗り越えようとする。それがユダヤ民族の記憶ということでしょう。

メシア待望とは何だったのか

さて、ユダヤ民族のストーリーは、そのまま苦悩の克服を目指す歴史でもあります。「自分たちは一度滅亡した」という体験を乗り越えなければならないために、自己理解がそのままこれからの展望を含む必要があるのです。

再度強調しますが、これは私の理解です。ユダヤ民族のアイデンティティとは、そのままモーセの律法(=聖書の最初の5巻)にあります。つまり、「ユダヤ人=律法を守る民」という定式化が旧約聖書を貫く主張です。

そして建国されたイスラエル王国はその栄華を極めた(ダビデ、ソロモン)のち、分裂・崩壊・捕囚という道を辿ります。その原因は、聖書によれば、神に従わなかったから、言い換えれば、エジプト脱出時に神から与えられた律法に従わなかったからです。

実際、レビ記の規定の終わりには、民がこの規定を守らず神に背いたらどのような末路が待っているかが克明に描かれています。その描写は南ユダ王国の崩壊を描くエゼキエル書の文章にそのまま引き継がれており、関連を考えるべきでしょう。滅亡後にその原因を求めてレビ記の編集がなされたと考えるのもありです。いずれにせよ、ユダヤ民族は自分たちの滅亡の原因を神からの離反と解釈し、文書化しました。

ですからエズラ・ネヘミヤ記では、捕囚後、神殿再建が何よりも大事な課題として記録されます。ユダヤ民族の帰還を許したキュロスはメシアとも捉えられ、神殿再建を後押しし、律法に従うことができる環境が再度整ったことを皆で喜ぶのです。こうして神殿祭儀を継続し、神礼拝を行うのがユダヤ民族のアイデンティティであり、従えば繁栄、背けば滅亡という二重の意味での律法の重要性が完成します。

しかし第二神殿時代は帝国支配の度重なる交代を経験し、ユダヤ教の禁教化などもあり、律法に従うことは容易ではありませんでした。メシア待望は姿を変えていき、ついにはローマ帝国支配からの解放者を選好するようになります。まさに、律法に従うことが難しいという現実を変えるものとしてメシアが捉えられているのではないでしょうか。

神とは何なのか

ここまで、神に従うというフレーズを繰り返しましたが、このことは何を示しているのでしょうか。

神は一見、暴君のように振る舞います。全ては神の権威のもとで動き、それに人間が意見することは基本的に許されません。生きるも死ぬも神のさじ加減でしょう。しかし、聖書の中で神が交渉可能に見える瞬間もあります。それは神の正義が問題になる場面です。

イスラエルの神は良い神であって、怒るに遅く、慈しみ深いと歌われます。実際、アブラハムは神の裁きを軽減するために、善人が命を失う可能性を考慮するよう神と交渉して成果を引き出しました。

王国時代にも、良い王と悪い王の判断が下されていますが、それはいわゆる善悪の基準でした。政治的というよりは、神への信仰心、また民に優しいあり方か、弱者を救済するつもりがあるか、という観点で善王悪王が測られています。

この世に正義があると仮定することと、この世に正義の神がいると仮定すること。なかなかこの二つを区別する線引きは難しいように思われます。ユダヤ民族は正義の神を持っていました。彼らが正義の重要性を聖書のあらゆる場面で説くこと自体は不思議ではないということです。

そして、ユダヤ民族の内部から見た場合に限れば、イスラエルの神は正義と公正という概念とその価値基準の人生への反映装置です。つまり、良いことをした人間は神から褒美を受け、悪いことをした人間は神から罰を受ける。また神は、国や民族に幸福を用意するために世界を操作し、不正の蔓延る集団を断罪する現象を引き起こします。

結局のところそれは、理想化されたユダヤ民族のリーダーでしょう。旧約聖書中で、理由なしに他の民族の利益が優先される場面は無いように思います。律法の内部ですでにユダヤ民族だけでなく全ての民族のリーダーとしての神というイメージが語られていますが、それは自分のところのボスが世界的に偉いボスであってほしいという願望に私には思えます。

各時代において神に従うことはユダヤ民族の生存のために努力することであったり、人類規模の正義を考えて行動することであったりしました。この、全世界の神でありかつユダヤ民族の神という構造が話をややこしくしています。同じ「神に従う」という言葉が民族主義と普遍性に対して一緒くたにされているのです。

しかも、現実問題として、国単位にせよ個人単位にせよ箴言に書かれているような因果応報思想だけでは世界は語れません。だからこそイスラエル滅亡の理由付けが必要なのだし、ヨブ記やコヘレトの言葉にあるような、人の知り得ない神の意図という発想があります。

まとめましょう。イスラエルの神は、

  • 世界の現象について絶対的な権威者である

  • 正義と公正を司っている

  • 自身を信仰するものたちを繁栄させると約束している

  • ユダヤ民族の約束の地としてカナンを定めた

このような状況が折り重なると、歴史の中でユダヤ民族は翻弄されます。絶対的な力をもつ神への信頼が足りなかったからこそ王国は滅び、再びカナンで神殿祭儀を執り行うことこそが自分たちの生存の条件である、と一応はストーリーが纏まります。しかし、そこに異邦人への宣教という風が吹いてくるのです。

キリスト教会の記憶

イエスとは何だったのか

ナザレ人イエスこそが旧約聖書に預言されたメシア(キリスト)であった。これが新約聖書の第一の証言です。イエスはまさにイスラエルを解放することを期待されていました。帝国支配を無効化し、律法と神殿を中心としたユダヤ民族の生活を復興させる旗印となることが求められていたでしょう。

しかし、イエスが実際にしたこと(あるいはその解釈)は、律法なしに人々が救われるための道を用意した、というものでした。その道とは、イエスを神の子と信じることです。これは大きくはパウロ書簡にまとめられています。

使徒言行録とパウロ書簡によれば、この救いは異邦人、つまり非ユダヤ人にも広がる恩恵でした。もはや彼らに律法に従う義務はなく、イエスを神の子であると認めれば良いと言います。

この救いは永遠の命と表現されますが、必ずしも旧約聖書の最初から出現する概念ではありません。明確な初出はダニエル書で、死後の裁きに関する概念として語られますが、新約聖書ではある種の人類の理想や目標のように見られています。文字通りいつまでも死なないで生きることかもしれませんが、ヨハネ福音書では神を知ることそれ自体が永遠の命であると表現されており、具体性に乏しいものです。

イエス本人の意思やその周りの人間の意図はともかく、新約聖書で語られるイエスはこのように、メシアという概念をユダヤ民族の解放者という立場から全人類の解放者という立場に変え、さらに解放という恩恵をいくらか抽象化し、永遠の命というフレーズに結実させます。

かくして、民族の固有性を持っていた旧約聖書がイエスの人生によって再解釈され、世界宗教への方向性を固めるべく普遍性を整備されます。イエスが当時のユダヤ教を批判したのは確かです。しかしそれ以上に、ユダヤ教の変革者とそのフォロワーという一派はユダヤ教からの逸脱者になります。これがユダヤ民族という視点から離れて神や世界を考えることの帰結なのかもしれません。

旧約聖書において正義とか愛とか言われたものは長い年月をかけて民族中心主義と対話してきたのだと思いますが、イエスに至って一部の人間がそこを抜け出そうとします。

パウロなどはユダヤ至上主義から離れられていないと批判する向きもありますが、そこも含めて人間の活動の記録でしょう。現実の人々の生き様には妥協も政治も付き物です。パウロ書簡もヘブライ書も、いかに普遍的な人類の救いと旧約聖書にある特定のコミュニティとしての考えを折衷させるかに苦心している文章だと思います。

復活とは何だったのか

イエスは十字架刑で処刑されたのち三日目に復活して弟子たちに現れた、というのも新約聖書の大きな主張の一つです。一応、死人の復活は聖書中に他にも存在するのですが、イエスのそれは全く違う重みで語られています。実質的に、全人類が縛られているところの罪の帰結としての死とその克服としての復活をイエスひとりに代表させているからでしょう。

はっきり言えば、私としては聖書の論理としてイエスが死んで復活する必然性は感じられません。ですから、もっと偶発的なストーリーを予想します。例えばこういうのはどうでしょう。

『ラディカルな主張して目をつけられたイエスが処刑され、その死を受け入れかねた人々がイエスの復活を吹聴する。それを信じるか否かが、真にイエスの思想を理解し共感しているかのテストとしてうまく作用していると捉えられる。もはやイエスの復活はイエスの異質性の主張となり、イエスは神の子であったという信仰を生み出す。

一方パウロは、神殿祭儀への批判をしていたイエスが、それを終わらすために自身を終局的な犠牲としたと解釈するが、復活については別途、アダムによって入り込んだ死をイエスが克服するという対比のストーリーに回収する。ヘブライ書もイエスが天上の聖所で一回限りの犠牲を献げたと解説し、パウロと共鳴する。』

つまり、イエスが説いた律法からの解放と、十字架を象徴的な贖罪と捉える論理と、復活の言説を巻き起こした周辺の出来事と、復活に対する意味付け、全てが論理的には無関係で、周りの皆が必死にそれらを統合するための物語と論理を考えたのではないかと感じます。

実際、他にも死んでから甦った人物が出てくる以上それは特別な理由付け(神の子である証明など)にはならないでしょう。また、死んでから復活する犠牲というのは聞いたことがありません。そして、復活が死の克服を意味するならイエスの昇天の動機がよくわかりません。復活が物理的に困難だから昇天というストーリーになっている、ということならともかく……。

ですから、先にも述べたように、ここでもっとも意味があるのは復活を信じるかがイエスの真の弟子であるかの分水嶺であるかのように語られることだと思われます。それはキリスト教のメンバーであるかどうかを峻別し、仲間内の結束力を強めるものです。そして、現代においてなお、科学的な言説を比較的擁護しているような教派であってさえ、復活信仰が他の奇跡などと比べて特別な地位を収めているのではないでしょうか。

信仰とは何なのか

さて、旧約聖書において「神に従う」ということの意味がユダヤ民族の是と世界の秩序の間を行き来していたわけですが、そのことは神への信頼、ひいては神の存在自体への信仰というものでも表現されています。もちろん、「お前の神は寝ているのか」「神は生きておられる」といった表現が可能である以上、神の存在というよりもその稼働性というか権力が問題なのかもしれません。しかし私としては、影響を及ぼさず、他のことから存在を推論できないものについて考える理由はありません。

そして新約聖書まで話が続き、イエスへの信仰が問題になります。これはイエスの教えへの信頼や、イエスが復活したことへの信仰、そして何よりもイエスが神の子であることへの信仰の話です。神の子という超常的な分類にイエスが置かれたせいでしょうか、場合によってはイエスが世界の創造の時から存在していたのかという議論も必要になったようです。すると、イエスは今も存在しているのか、という形でイエスという存在への信仰という言い方もできるかもしれません。

この「神の子」という概念も、ユダヤ教との折り合いをつけるための概念だと感じます。そもそも復活を引き合いに出さずにいればイエスはただ偉大な預言者として死んでいただけでしょうから、イエスの教えが広まるだけで済んだのではないでしょうか。

ではイエスの教えへの信頼とはなんでしょうか。

結局のところ、このイエスの教えへの信頼だけが表面的にはイエスのフォロワーたちの実生活に関わってくるはずです。その教えが正しい、効果的だ、人生を豊かにする、人類にとって益であるという確信が人を行動へと駆り立てます。

実はここは考えなくてはならないところで、古今東西の倫理を説く文章に様々な根拠が立てられていると思うのですが、「汝の敵を愛せよ」という教えひとつとっても、それが正しいという根拠は一体何だと言えるのでしょうか。

もちろん「イエスが神の子だから。なぜなら復活したから。その証言が聖書であり、その証言者が教会です。」という説明を受け取ることも可能です。しかし、私の感想は上述しました。

私の意見は、実はイエスの教えを信じる根拠とは、旧約聖書に積み重ねられた失敗の歴史そのものです。そもそもイエス自身、旧約聖書を引用してから「しかし私は言う」と提言します。

なぜ隣人を愛するというだけなのではなく、敵を愛するべきなのか。それはユダヤ民族の中に善政を敷こうとした王たちの失敗や、異邦人との結婚を厳しく批判した預言者の言葉や、帝国支配のなかを生きた人々の苦悩や、いつまでたっても終わらない近くて遠い民族たちとの諍いを終わらせるための、銀の弾丸なのでしょうか。もしかしたらユダヤ民族の歴史を舐めるようにして読んだイエスの、絞り出すようにして口をついた結論なのかもしれません。

私は聖書に積み重ねがあると思います。イエスの発言をたどると、パウロの論説を掘り下げると、かなりの確率で旧約聖書の言葉に行き当たります。批判しつづける精神そのものが聖書の伝統ではあります。

教会とは何なのか

積み重ねの上に今や異邦人への救いの道を備えたキリスト教会は、パウロの宣教旅行の記述を見る限り、かなりの勢いで地中海世界を席巻していったようです。どう言う意味になるにせよ、イエスへの信仰を持った人々をキリスト者と呼び、その集会が各地へ広がっていく。

しかし、教会はあくまで人々に選択を迫る異質な存在です。パウロはアテネでイエスの復活を語り、人々を二分する反響の真ん中を通って退場します。イエスを受け入れなかったユダヤ民族へも、パウロの嘆きが悲しく留まります。

弾圧も少なからずあったと思われます。それでも、イエスにつくかつかないかの二択を固持し、結束と励ましのなかで影響力を強め、どう生きるべきか、何を信じるべきかを選択し続けてきたのがキリスト教会でしょう。

そうこうするうちに、教会は内部と外部という区別を手に入れます。霊と肉、あるいは光と闇。二元論に陥った集団は自分たち以外を厳しく批判し、内部であったはずの人間と意見が衝突した際も、排斥という形でしか決着をつけられなくなります。ヨハネ福音書、ヨハネ書簡、ヨハネ黙示録あたりに散見されるひとつの思想がこれです。

教会独自の言語も生まれます。書簡は特に、その読み方が分からないと内容を汲み取るのが難しいくらいに内輪向けの論理が展開します。最初から、聞いても分からないような話をイエスがしていたわけではないでしょう。しかしこれも積み重ね、つまり伝統です。

核心がシンプルなテーゼであったとしても、それを丸ごとコピーするために周りの様式も伝達される。それすらも月日を重ねるうちにテーゼ本体と見分けがつかなくなり、不可侵の領域が増えていく。何もイエスの言葉に限らない現象なはずです。

教会とはそういう運動体ではないでしょうか。もしかしたら理論化されて簡潔にまとめられるかもしれないイエスの教えの本質を伝えようと努力する中で、雑多な環境と区別をつけようとしながら伝播するうちに、伝統を獲得したもの。今も昔も、教会という媒体を通らずには誰もイエスを知ることができないというのはほとんど自明だと思います。

人はどう生きるべきなのか

正義とは何なのか

創世記からずっと、ある種の倫理観の上で物語が紡がれているのは明らかです。標語的な十戒やレビ記の詳細な法規を見ればかなり具体的に何が正しいかが神から与えられていると分かります。

ひとつ、正義という概念を拾ってみましょう。

これは恐らく「正しい裁き」ということだと思います。ある事件の裁判にせよ王の治世にせよ外国との紛争にせよ、争った二者のどちらが滅び栄えるべきかについての基準です。

これが自明な概念なのか少し議論が必要な気もしますが、敢えてそのまま話を進めます。正義とは何か。偽証しないとか、命を優先するとかでレビ記は裁判を保とうとしているでしょう。王の治世については、弱い立場のものを虐げないこと、皆が物質的に欠乏しないように工夫することなど。そして戦争については、いたずらに命を滅ぼさないこと、貸し借りの筋を通すこと、他国を侵略して奪わないこと。

もちろん、聖書内でこれらが無条件に守られているとは思いません。特にカナン入植において他民族への侵略が肯定されていることは、上記のことを神の命令という上位基準で有耶無耶にしているとも思います。しかし、大筋のところ、聖書の中で何か目指そうとしている方向性というのは、この辺りにあると思うのです。

大筋で、と言いましたが、さらに留保するなら、ユダヤ民族の不利益になることは随所で避けられています。しかし、創世記のハガルの記事にみるように、神がヘブライ民族に虐げられる他民族に手を差し伸べるというストーリーもあり、ここを押さえておきたいのです。なにしろ、自分自身の滅びの理由も王国内に蔓延った悪政が一因になっていますし、聖書内で次第により普遍的な正義への問いかけが生まれていると考えても良いのではないでしょうか。

さて、改めて「正しい裁き」が何かを考えます。レビ記では故意でない殺人についての情状酌量の余地について記述があります。また、人を傷つける危険性が予測されていた牛についての持ち主の責任を問う記述もあります。十戒のように「殺すな」という大前提の無条件の原則もありますが、そうはいっても人間を取り巻く様々な環境や事情があり、「そういうことなら仕方ない」という説明を求めている場面は多いのではないでしょうか。

何が正しい裁きなのかについて法典を著し広く適用すること自体はよく行われていることです。しかし、時代背景や国独自の事情、歴史的な推移など合間って、おおよそ普遍的な法律というものはありません。とはいえ、人々がひとつひとつの出来事について、誰が正しくて誰が悪いのか納得を求めて理由を考え論理を立てようとしてきたことは間違いないでしょう。

だからこそ、事件の事実関係を洗い出し、必要な知識を整理したのちに、正しい裁判が行われるように、理解できて納得のいく裁きが下されるようにと願うのでしょう。現実の裁判でそれが満たされなければ、それはなおのこと神への要求となります。

少なくとも、偽証したり条件が同じはずの二件を相違させたりということは、正義を曲げることになります。ここでは、ひとつの真実は複数の視点で語りうるとか、全く同じ条件の出来事がふたつと起こり得ないというような相対化は度外視してください。そうではなくて、正しい裁きが究極的には求められる、つまりそれが人々の願いそのものだということが問題になります。

さらには、正しい裁きを人間が行えないときにも、全ての出来事を人が知り得ないという当然の事実に当人たちがたちが匙を投げるときにも、神の側では論理が存在し、全てが既知の前提とされているのだという信念が、聖書の文章の底の方に横たわっているのです。

ですから、聖書の中では法典はゲームのルールではありません。抜け道を探して利益を最大化するための枷ではありません。そうではなくて、最終的には真面目に善を積み上げた先に平和が待っているはずだという整った世界における、現実的に可視化された手がかりとしての規範なのです。

確かに局所的な正義が対立することはあります。しかしそれは正義が運用されるなかでの過渡的な現象であって、本質ではありません。勝った方が正義というのとも違います。何が正義かを神が知っている。だから裁きを最終的には神に任せる。これが正義が存在するという聖書の理念なのだと思います。

愛とは何なのか

人と争ったときの原則としての正義に対し、隣人愛と呼ばれるこの原則は「他人にして欲しいと思うことを相手にもしなさい」という言葉に集約されます。

標語的には、旅人をもてなすこと、寡婦や孤児を助けることなどの例が聖書のいたるところで挙げられています。もっと具体的な物語や譬え話も散りばめられています。食事を供された寡婦、過去の確執を赦した兄弟、病気の友人を訪ねる者達。

それは善意であって打算ではありません。見返りを求めるのはなく無償で行われます。

思うに、これは正義の先です。全てがシステマティックに公平に公正に進んでいく理想化された世界を思い描いてください。必要な労働を全人類が共有し、そこからの逸脱は平等に裁かれます。機械すらそれを代務できるでしょう。しかし、おそらくそこに愛はありません。

イエスが語った、放蕩息子の譬えというものがあります。筋はこうです。二人兄弟の弟が家出して生前相続した財産を食い潰して実家に帰ってきます。父親は走り寄って弟が帰ってきたことを喜び、盛大に宴会をするので、真面目に家で働いていた兄が、父の弟への寛大さに腹を立てます。しかし、父は兄を諭します。

この弟は幾らか誤った人生の過ごし方をしたのですから、多少父から罰があって当然と兄は思ったのでしょう。それが公平かもしれません。しかし、父は弟を赦し、反省の色を確認する前から怒るそぶりも見せません。少し天秤が弟の側に向きすぎかもしれないが、兄が損をしたわけでもない。兄が怒るのは筋違いというわけです。父が赦すのは父の自由の範疇です。

人は自由を持っています。自由の使い道として、人は他人に杯を差し出すことができる。これが愛です。

旧約聖書には男女の愛もそこそこ出てくるのですが、新約聖書ではめっきり出てきません。ギリシャ語にせよヘブライ語にせよ日本語にせよ、恋愛と隣人愛は同じ愛という言葉を共有していますが、筆者の興味が聖書を読み進めるごとにどんどん隣人愛の方に集中していくのを感じます。

イエスもパウロも愛を説きます。他の教義をそっちのけにしても愛の言説が残るくらいには長く話しています。正義が存在するかとかイエスへの信仰といった精神的なことを除くと、キリスト教が生活の実践として打ち出したいことをまとめる言葉がこの愛なのだと思います。

私なりに愛を整理しますと、こうです。目の前にいる人間と、喜びや悲しみを共有すること。自分と相手が同じ共同体だと思うことにより、嫉妬や傲慢を回避すること。相手を、いつも同じ反応をする変化しない機械だと思わないこと。自分の為にではなく相手の為になることをすること。

先の放蕩息子の例で言えば、父からすれば自分のように思っている息子が帰ってきたことを喜びこそすれ罰を与える意味はないし、兄からしても実質的に損していない自分の権利の主張ではなく、弟や父の喜びに共感してやればいい、ということになるでしょう。

愛は、感情の部分もあるかもしれませんが、行動で表されるものと思います。それも、隣人という言葉に代表されるように、ごく近い立場の人間、家族や友人、同僚といった人物に対する行動の指針です。巨悪を討ち滅ぼしたり和平を作り出すようなことはできないかもしれませんが、目の前の人間に差し出す行為を多少良くしたりはできると思います。案外、人を変えることができるのはそういった小さな行為ではないでしょうか。

終末とは何なのか

アッシリアやバビロニアの脅威に晒されていた頃から、預言者が語る未来は最終的に神の国が地上に達成されて永久的な平和が訪れることで完成していました。

イエスは復活から間もなく昇天し、文字通りの意味での王などには遂になりませんでした。パウロは明日にでも終末がやってきて世界が終わると考えていたようですが、長期的な生活を捨てて極端な振る舞いをし出した者たちに警告するパウロの名の書簡が残っています。黙示録で語られる獣はローマ皇帝を一義的には指すようですが、ローマ帝国がキリスト教化されてもなお超常的な支配は地上に現れず、今日に至ります。

今にでも終末がやってくるかもしれないから、という脅しが人を健全に変化させるようには思えませんが、いつか来る希望を信じておくという意味での楽観論には一定の効果があるでしょう。

世界は、人類は、果たして進歩しているのか。

科学技術の積み重ねは間違いなく存在し、長い目で見れば知見は増え続けています。しかし人類の愚かさを嘆いて、人はちっとも進歩しないという悲観的な声も聞くことがあります。ひとまず、我々が統計的な意味で命を大事にできるようになってきたのかはここでは扱わないことにします。

正義や愛は、ある種の目標です。それ自体が明確に定まっているわけではないのですが、世界を少しでも局所的にでもより良くしたいという願いだと思います。終末観もそのようなものだと思います。全てが突然無になるわけではない。かと言って、ただ漫然と時を過ごしたいわけではない。

私は、世界が良くなっているのかという観察をするほどの能力が自分にはないと思っていますが(読みたい本がたくさんあります。考えたいことが山ほどあります)、世界をよくしたいという願望はあります。大それたことは言えませんが、家族と友人に言う言葉、見せる行動が、幸せにつながればいいなと思っています。

一緒に喜んだり悲しんだりします。でも、そのうち良くなることを簡単には諦めないでいようと思います。これは絶対原則などではありません。拷問とか戦争とか極限状態を仮定しても貫くような信念ではありません。そうではなくて、精神科の主治医が診察のたびにかけてくれた「絶対良くなりますからね」ということばのような希望とか優しさの話です。

クミが聖書から学んだこと

ユダヤ民族史について

ひとつの共同体の持つ歴史観の存在を尊重します。しかし、他者を暴力で排除することを肯定することはできません。また、民族の存亡が個人の存亡と天秤にかけられる全体主義は、私が今生きる現代日本に直結するものではありません。

律法について

弱者を救済し、命を尊重する原則を評価します。しかし、形式的な運用はイエスやパウロ、また彼らの下敷きになった預言者達によって批判されてきたと考えます。

神への信仰について

正義の存在を信じたい願いが私の中にもあります。しかし、絶対者としての神を私は仮定しません。ただ、神との対話の中で自分と世界を省みる文学の美しさを尊敬します。

イエスについて

イエスの教えに私は感銘を受けました。愛の精神は今後も私の人生の指針です。しかし、イエスを神格化する多くの証言を私は受け入れません。

終末について

人類が倫理的に前進しようとする営みを私は信じています。合理的に客観的にそれらが否定されることもあると思います。それでも、私の周りのちっぽけな社会から始めるときに、進展を諦めないでいられたらと思います。

まとめ

人はみな草、とイザヤが言ったように、人はみなひと茎の葦に過ぎません。しかし、コレヘトの言うように、永遠を思う心が与えられている、考える葦です。聖書を読めば人生が変わるだとか、世界を救うことができるだとか、そう言ったことは私の考えではありません。しかし、美しくないかもしれない積み重ねの上に載っている上澄みを掬うために、私は聖書を読んでよかったと思います。

終わりに

長く拙い文章をお読みいただきありがとうございました。拙稿が読者の人生に少しでも良い変化を与えられていることを願います

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