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ペンテコステと多言語世界

(中高科のお話の原稿)

今日はペンテコステです。五旬節とか聖霊降臨祭などとも呼ばれます。教会ではこの日を年に一度祝いますが、元となった出来事の意味を一緒に考えてみましょう。

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。

口語訳聖書 使徒行伝第2章1-11節

イエスが昇天した後、エルサレムに留まっていた弟子たちのところに聖霊が降りました。その結果、弟子たちは地中海世界の様々な言語で話し出します。

聖霊が降ったら何が起こるのか?

ペテロがこのあとの演説でこう言っています。自分らは、神がイエスを復活させたことの証人だ。つまり、使徒行伝における聖霊の働きとは、この地中海世界全体に「神が遣わしたイエスがユダヤ人のせいで処刑され、しかし神が復活させた」ことを証言することです。

聖霊はペテロやパウロの進路を導き、迫害するものから守るために奇跡を起こし、イエスの復活を証言する勇気と知恵を与えます。そして周りの人々はというと、その証言や奇跡に驚き怪しみ、ある人々は改心して受け入れ、他の人々は頑なになり拒む。その記録が使徒行伝です。

コリント人への第一の手紙第12章3節にはこうあります。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。」まさに、宣教が進むか進まないか、信仰を告白するか否かに聖霊が関わっているのだ、ということでしょう。

ですから、この聖霊降臨の出来事こそが、キリスト教宣教、つまりイエスが復活したという証言の広がりの始めと言えます。その意味で、「ペンテコステは教会の誕生日」と言う人もいます。

しかし、なぜ、ガリラヤという一地方の人々が多言語で語るという奇跡がこのとき起きる必要があったのでしょうか?

別にこのあと弟子たちがバイリンガルになったとかペテロのギリシャ語が流暢になったとかそういう記述はありません。少なくとも使徒行伝の記録として言語習得がメインの話題ではないと思います。でも、ユダヤ教からキリスト教が生まれるときに、この多言語の奇跡があったことは、とても象徴的なことだと感じるのです。

ユダヤ教はユダヤ民族に固有の宗教です。当時あった聖書も、原典はヘブライ語というユダヤ民族の言語で書かれていますし、アラム語やギリシャ語といった支配国の言語が人々の第一言語になったあともその優位性は変わっていませんでした。

しかし、それがキリスト教に至って変化します。というか、まさにこの使徒行伝で語られているのが、「神の救いは異邦人=非ユダヤ人にも及ぶ」という一大転換の受容の様子です。

いわゆる「エルサレム会議」の様子は使徒行伝の第15章で詳しく語られますが、まとめれば「ユダヤ人の証である割礼を受けなくても、異邦人は異邦人のままで主イエスの恵みのゆえに救われる。そのことを聖霊が選んだ」となるでしょうか。ここでも聖霊がキーになっています。

ですから、キリスト教会はユダヤ民族に固有の宗教であることを辞めました。新約聖書は当時の共通語であるコイネー(共通)ギリシャ語で書かれています。その後、紆余曲折はありましたが、世界各地でその土地の言語に訳された旧新約聖書が読まれています。

これがある意味、ペテロたちが体験しエルサレムの人々が一瞬垣間見た多言語の夢の、その先なのではないでしょうか。

現代の我々は結構簡単に異文化理解とか翻訳可能性とか言いますが当時からそれは難しいことだったと思います。言語が通じない相手のことを正気だと信じることすら難しかったかもしれません。まして相手の考えを理解したり共感したり取り入れたりするのって大変です。

でもキリスト教は翻訳可能なものを伝えようとしました。神がイエスを遣わした。イエスは処刑された。そして神がイエスを復活させた。決して意味不明な呪文でも難解な理論でもありません。受け入れられるかどうかは別として、どの文化や言語にもそれを伝えようとしたのです。

ルカは福音書と使徒行伝で上下巻の宣教セットを書きました。上巻ではイエスの教えを中心に、下巻では復活証言とその広がりを中心に。今日、おそらく彼が全く知らなかった日本でこれが読まれ、イエスの教えが知られていることは、ペンテコステの奇跡に勝るとも劣らない奇跡だと私は思います。


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