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009.サウスイースト・ヴィレッジ

2002.4.16
【連載小説9/260】


「神々の島」と呼ばれるバリ。

島を訪れるツーリストを迎えてくれるのは、ヒンズー教の叙事詩ラーマヤーナを題材としたケチャや、レゴン、バリスなど独特の踊りの数々。
伝統的な民俗舞踏は、その根底に豊穣への願いや神への感謝があるから、それに触れる者は一気に濃密なバリの信仰の世界に引き込まれることになる。

そのバリの島中央部にウブドゥという村がある。
いくつものギャラリーや、絵画の土産屋が立ち並び、内外から集まったアーティストたちが、創作と共にある生活を送る芸術の村である。

緑に囲まれた内陸の環境の中、神々に見守られて重ねられる日々。
そこで人が営むにふさわしい行為が、黙々と創作にむかう芸術活動以外の何ものでもないことを見る者に説得力をもって示してくれるコミュニティ。神々と人、自然と人が確実につながっていることを体感できる神聖な村。

そのウブドゥに吹いていた風を僕に思い出させる場所。
それがサウスイースト・ヴィレッジだ。

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トランスアイランドのサウスイースト・ヴィレッジ。
細く伸びる半島のようなこの村にもアーティストたちが集まってきている。

外洋に向いた南側のビーチは、これからの季節、波が日増しに高くなる。
これに対して、入り江に面した北側のビーチは年中穏やか。

そして、この「動」と「静」のニ空間を分断するように岬に向けて一本道。
全ての道がループの中に位置づけられる島の中で、このストリートだけがワンウェイの道で、一種の閉鎖的空間を生み出している。

カンバスを立てて絵を描く人。
ファインダー越しに自然を観察するカメラマン。
ただ、その場に座り込んで瞑想にふける人…

種々のアーティストが、その創作ポリシーにフィットする場所を得てビーチに点在する光景を見ることができる。

CreativeとImaginative。
アーティストにはふたつのタイプがあると以前から僕は思っている。

そう、「創造型」と「想像型」だ。
動的アーティストと静的アーティストと言い換えてもいいだろう。

一方は、変化する環境に自らを投げ込んで表現する世界を広げていく。
他方は、変わらない自己の中に環境を呼び込んで表現する世界を深めていく。

そして芸術とは、このアーティスト価値観の双方が表裏一体となって育まれてきたものではないだろうか?
サウスイーストの一本道を突端まで歩き、再び引き返すとそんな考えが浮かんでくる。

往路は右に静で左に動。
復路は左が静で右が動。

「創造」と「想像」の融合ゾーン。
どんな人が集い、どんなアートが生まれるのか?
そして、そこにはどんな風が吹くのか?

時折、この村にやってきてその風を確認したいと思っている。

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ノースイーストからサウスイーストへ。
つまり、文学の村から芸術の村へと、島東部を歩くと、人と自然の間に存在するある種の関係を体感することができる。

「観察」
ひとことで表現するとそうなるだろうか?

ここでは、人が大いなる自然に対して、受身の姿勢でそれをじっくりと見つめる視点を持つことの意味を学べるような気がするのである。

------ To be continued ------

※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。

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【回顧録】
ポリネシアを舞台とするこの作品に東南アジアのテイストを持ち込むことは、最初から僕の中にあったアイデアでした。
90年代は南国の島々を旅していた僕の旅先が少しずつアジアに拡散していったきっかけとなったのが97年のバリ島訪問。そこで得た直感はハワイの「開放」に対して「濃密」でした。

この回で「創造」と「想像」という表現を書きましたが、90年代後半から21世紀初頭にかけて、僕の中ではプロデューサー業と作家業のバランスをどうしようか?という迷いが少なからずありました。

極小の自分が旅を重ねながら極大の世界と向き合って、創作を重ねる…という生業が最も夢見たキャリアであったのに、世界を見れば見るほどに自分のためだけには生きれないな、という危機感のようなものも大きくなっていたからです。

その後、東南アジアの国々への取材は50回を超え、南の島よりアセアンの専門家のように評されることもありましたが、僕にとってミレニアム前後の仕事はその後の人生に大きな方向性を示してくれるものとなりました。
/江藤誠晃


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