042.楽園創造の速度観
2002.12.3
【連載小説42/260】
この島に住むようになって腕時計をしなくなった。
日本にいた時のような時間に追われる仕事がないこともあるが、島では人間のリズムの前に自然のリズムがより大きくあるというのが理由なのだろう。
赤道に近づくほど季節の変化が少なくなるのと同時に、昼夜のサイクル変化も小さくなる。
日の出と日没の方角はより東西極に寄り、一日における昼と夜の比率が均等に近づく。
そして、見上げた空の太陽の位置や肌に受ける太陽光のニュアンスで大体の時間はわかるものなのである。
そもそも時間は人類が生み出したものではない。
地球のリズムという外的リソースを、自分たちにとってわかりやすく細分化するテクニックとして時間という概念を生み出し、時計というテクノロジーでそれを表現可能としたのだ。
そして、人類の文明史とは、「不変」の外部リズムに「変化」を加えようとする営みの積み重ねだったのではないだろうか?
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以前なら10人で完成した仕事を5人で仕上げましょう。
荷車いっぱいに必要だった材料を、バケツ一杯で済むものに変えましょう。
1万ドルかかっていたコストを5千ドルに抑えましょう。
これらは全て、文明的な進歩を促したインプットとアウトプットの関係だ。
達成すればより多くのものが得られるし所得は増える。
つまり、文明化とは「同じアウトプットを得るためにいかに必要なインプットを減らすか?」の創意工夫の歴史であり、それがイコール「同じインプットでいかにアウトプットを増やすか?」となり、右肩上がりの成長に縛られる今に至った所以である。
では、この史観としての文明観察を時間という観点で再考してみよう。
すると、そこには投入されるリソースがヒトか、モノか、カネかの違いこそあれ、これらは全て時間短縮という目的に帰結する方法論であることがわかる。
つまり、1年かかった仕事を半年で仕上げましょうとか、明日やることを今日こなしてしまいましょうという営みのことだ。
このこと自体、人類にとって悪いことではない。
テクノロジーが可能とする効率性や合理性で時間を超越しようとする人類の好奇心は様々な豊かさを生み出したのだから…
問題は、生み出した余剰時間の使い方である。
早く仕事が片付いたなら、ゆっくり休養すればよいものを、ヒトはその時間に新たな仕事を当てはめてきた。
早く目的地に着いたのだから、その地をゆっくり楽しめばいいものを、ヒトはさらに先へと歩みを進めた。
人類は文明化のシナリオに、ブレーキをかけるとか立ち止まって休息するとかいう速度調整機能をうまく適応させずにその歴史を重ねてしまったのである。
さて、トランスアイランドが模索する「心の楽園」。
コミッティ会議でまず議論されたのは、その「速度観」(「速度感」ではない)についてである。
「楽園」を創る(提供する)側の「速度観」は、そのまま、場の空気となり訪れるヒトの心理に影響を及ぼすから共有する速度ルールを設けることにした。
といっても、難しいものではない。
「進んでは止まり、場合によっては引き返すことも辞さず、無理をせず、急がずやっていこう」という極めてのどかなスローガンだ。
「適正スピード」を求めること自体を目的とする開発の「速度観」、とでも言い換えればいいだろうか?
ITやモバイルは我々を豊かにしたか?
そんな疑問符から、この島のプロジェクトはスタートした。
ヒトは皆、努力に伴って増える負荷や進化し続けることの疲労を知ってなお速度調整が苦手な生き物だ。
1年で出来ることを2年かけてのんびりやろうということではない。
2年かかることを1年で達成したのだから、1年はゆっくりしようよ。
そんな当たり前のメッセージを発信していきたいのだ。
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島で暮らす僕の最大の楽しみ。
それは可能な限り日没を見るという行為だ。
太陽がゆっくりと水平線の向こうへ姿を消して行くひとときの観察が、小さな自分のリズムを地球大のリズムに溶かし込んでくれるような気がするからだ。
太古から変わらぬ1日に一回転という地球の回転速度とそのリズム。
それを超えることにどこまで価値があるのだろう?
ゆっくり足踏みしてもいい。
時には少し後戻りしてもいい。
それを21世紀的な「速度観」と位置づけ、最終的には我々人類を包む大きなリズムに正確に同調させること。
それが、この島の「楽園」創造であり、そこに流れる時間を僕らは「トランス・タイム」と呼ぶことにした。
------ To be continued ------
※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。
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