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049.ノンスモーキングアイランド

2003.1.21
【連載小説49/260】


自主、自由、自律。

独立心を持って既成概念に縛られることなく、全く新しい「個」が開放されるコミュニティを創造しよう…

そんなトランスアイランドにも規制としてのルールが幾つか存在する。
理想の「楽園」を守るために、持つべき最低限の「掟」。
そのひとつが「禁煙」だ。

この島では、島民はもちろん、訪れるツーリストの全員が公私の場を問わず、島内における一切の禁煙を義務付けられている。
つまりは、ノンスモーキングアイランドなのだ。

世界的傾向として年々高まる禁煙志向の実態と、島の考え方をまとめておこう。

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昨年の9月、マーシャルの帰途、オアフ島に滞在した際に驚いたことがある。
7月1日からスタートしたレストランの全面禁煙により、公共の場における喫煙シーンがその姿を消したからである。

部分禁煙と全体禁煙の差は大きい。
煙のない快適さはもちろんだが、サービス面における禁煙と喫煙席への誘導手間や、互いの気遣いも含めて考えると、その効果は大である。
(もっとも愛煙家には苦痛と肩身の狭さしか残らないが…)

この1月1日にはマウイ・モロカイ・ラナイ・カウアイ各島で「レストラン禁煙法」が施行され、ハワイ諸島の禁煙化はますます進んでいるし、11月にタイで施行された禁煙省令は、違反する日本人観光客の多さが話題になるなど、リゾートにおける禁煙は世界的傾向ともいえる。

もちろん、余暇時間だけではない。
この傾向は日常生活レベルでも着々と進んでいる。

いち早く禁煙活動を社会テーマとした米国の成果は世に知られる通りだし、世界最大のタバコ生産国にして消費国でもある中国においても、国家レベルの禁煙活動計画制定が予定されている。

で、問題は我が母国、日本。
官庁、政治家、生産者、業者間の利権がからみ、販売規制に本腰を入れない政府の無策が、健康と環境破壊の拡大を野放しにし、国際社会における大きな遅れをとっている。
(ここで「環境破壊」と記したことにも注目してほしい。タバコはその製造過程で葉を乾燥させるために莫大な木材資源を犠牲にする。日本は貴重なアジアの熱帯雨林破壊の上に自らの健康を破壊するという二重の過ちを犯している。)

加えて、社会への影響を考慮して各国で設定されているタバコの広告規制についても日本のレベルは明らかに低い。
欧米では、ほぼ全面禁止されているTV広告も、日本ではマナーに名を借りた間接CMとしてまかり通っているし、健康という概念においては対極に位置すべきスポーツイベントのスポンサーにタバコブランドが付いたりする。

日本を訪れる外国人ツーリストが氾濫する街中のタバコ自動販売機に軽蔑の視線を向けていること。
さらに、殆どの日本人がそのことにさえ気付いていないことも付記しておこう。
(タバコだけではなくフロンガス排出問題につながる大量の飲料系街頭販売機も大きな環境問題だ。)

では、ここでさらに深刻な話題を提供する。
もはや避けて通ることのできないETS問題。

聞き慣れない言葉かもしれないが、environmental tobacco smoke の略で「環境たばこ煙」。
副流煙と表現したほうが、わかりやすいだろう。
非喫煙者は強制的に吸わされるこの煙で、命さえも脅かされている。

米国では90年代前半に、環境保護局によって報告された成人におけるETS起因の非喫煙肺がん死者が年に数千人にのぼる実情や、何10万人ものETS起因小児喘息患者の存在がその後の禁煙運動の大きなきっかけになったほどである。

禁煙に甘い日本においても、潜在的に存在するこれらの被害者数は計り知れないものがあるという。
ひとたび、社会に蔓延した悪弊は密室に渦巻く煙のごとく消え去らない。

「それでもタバコを吸いますか?」

そんな無言のメッセージを送り続けることが、完全なる禁煙コミュニティであるトランスアイランドの使命なのだろう。

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タバコが厄介なのは、その「依存性」にある。
つまり一度身に付くと、離脱が極めて困難であるということ。

ニコチンの依存性はコカインやヘロインよりも高レベルで、40分程度で体内濃度が半減するため、「次の1本」を求める悪連鎖が続くのである。

そこで、僕が気付いたのが、タバコと文明社会の関連性の部分。
つまり、「依存性」とは文明そのものが持つ病的要素と言えはしないかということ。

ひとたび入手した富を手放せなくなり、それを追い求める中で知らず知らずに周囲に破壊を生み続ける…
20世紀という文明化の100年は、タバコの世紀でもありイコール「依存」の世紀だったのかもしれない。

ネットワーク社会における他者との関係は、決して「依存」ではなく、自主、自由、自律(“自立”ではない)を前提とする相互理解の上に成り立つ。

僕らは20世紀の負の歴史部から「離煙」しなければならないのだ。

------ To be continued ------


※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。

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【回顧録】

20年前の作品を再公開する作業の中で感じることは、世の中なんにも変わっていないな…ということばかりなのですが、ことタバコを取り巻く環境にいおいては成果が出たなという実感があります。

副流煙に対してはアレルギー反応的な部分があったので、本当に苦しめられた思いがありますが、そういえば最近では殆ど出会うこともなくなりました。
ということは、今年成人う迎えた若者に「タバコ問題」など、取るに足らないことかもしれません。

僕が成人したころはタバコを吸うことが大人になったステイタスであるかのような風潮があっただけでなく、飛行機の中でも喫煙エリアの席が堂々と存在し、社会に出て入社した会社はデスクのあちこちに灰皿が点在し、通勤電車のホームから見下ろす線路の上は吸い殻の山状態でした。

社会課題には、時間をかければ解決できるものもあるという実例を示した数少ない成果かもしれません。

一方で、東北の震災時の福島原発問題を受けて「これで原子力発電も下火になるだろうな」と感じたのは一過性のものとなり、政府は原子力発電復活に舵を切り直し、それに反対する国民の機運も10年前とは全く違います。

20年後、安堵感と共に世の中からその姿が相対的に消えているものはあるのでしょうか?
/江藤誠晃




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