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酵母 文明を発酵させる菌の話

酵母 文明を発酵させる菌の話   ニコラス・マネー著  田沢恭子訳  2022年

酵母と人との関わりは多岐にわたっていて興味深いです。この本の中から、以下にその1部を引用します。
この他に、チョコレート、コーヒー、バイオ燃料や製薬などにも関わりがあります。


酵母(糖依存菌)は、文明が誕生した当初から目に見えないパートナーとして文明に寄り添ってきた。今から1万年前、人類の祖先は野獣の肉や野生の果実に依存するのをやめて、家畜の飼育と穀類の栽培に乗り出した。森林や草原を離れ、定住して農耕を始める大きな原動力となったのは、酵母のつくってくれるビールやワインだった。

19世紀に入り、酵母がアルコールをつくり出す生き物であることがようやく認識された。
プロイセンの生物学者フランツ・マイエンは1838年に「サッカロミセス・セレビシエ」というラテン名をつけ、この名が現在も使われている。

酵母はブドウ糖(グルコース)などの糖を燃料として自らの細胞を働かせる。エネルギーを回収するには、糖分子を小さなパーツに分解し、そこに含まれる原子から高エネルギーの電子を剥ぎ取る。この電子の剥ぎ取りを酸化と呼ぶ。周囲に酸素が十分にあれば、酵母は2段階の反応によってブドウ糖分解し、その過程でエネルギーを獲得し、あとに水と二酸化炭素だけを残すことができる。
ところが、ビール用の麦芽汁やワイン用のブドウ汁に含まれる酵母細胞は、すぐに周囲の酸素を使い尽くしてしまう。これらの糖分たっぷりの液に溶け込んだガスは、ゆっくりとしか拡散しないからだ。
酵母は酸素の欠乏にうまく適応し、酸素を使わない燃焼、すなわち発酵に切り替えるのだ。
余ったエネルギーを全てアルコールにして残すという妥協策には、十分な価値がある。この化学的「排泄物」は、酵母が生育に必要とする糖を奪い合う他の真菌や細菌には毒となるのだ。
酵母がアルコールを生成するのは、その濃度が10%から15%の範囲に達するまでで、この濃度に達すると酵母自体が死んでしまう。この仕組みのおかげで、ビールやワインのアルコール濃度が制限される。

核のない細胞を原核細胞と呼び、核のある細胞を真核細胞と呼ぶ。細菌は原核生物であり、酵母はヒトと同じく真核生物だ。

私たちの皮膚表面、耳、鼻、口、膣、消化器系は、多様な酵母であふれている。

酵母は糖があればどんな場所でも生育する。熱帯のブルタムヤシの木は酵母の子育てにうってつけの場となり、無数の酵母がここで暮らしている。

ホモ・サピエンスがアフリカ類人猿の一つの種であるのと同じように、サッカロミセス・セレビシエはアジア原産の真菌の一つなのだ。
この酵母は中国を出ると、あらゆる地域へ広がった。ワインづくりで使われる酵母は、今から1万年ほど前に肥沃な三日月地帯から西へ移動したらしい。

酵母の移動に関する答えは、昆虫の消化管内の酵母にある。特に社会性スズメバチは重要な役割を果たす。移動可能な酵母細胞は、風で運ばれるのではなくスズメバチの体内に入って運ばれる場合がある。ブドウ畑では昆虫が旺盛に活躍するうえに、熟した果実は昆虫を強力に引きつけるので、落ちたブドウの実をむさぼる昆虫の体内に酵母が入る。

パン生地の中で働く酵母は、ブドウ汁をワインに変える発酵プロセスよりも素早く仕事を完了させる。穀類に含まれる糖は澱粉粒の中に閉じ込められているので、酵母細胞が糖に到達するには製粉作業が必要だ。

穀類の生地に酵母を加えると、酵母は酸素を消費しながら最も効率のよい代謝方式で糖の混合物を食べ始める。この好気性呼吸によってエネルギーの放出量が最大となり、二酸化炭素と水だけが排出される。しかし弾力を増していく記事の内部に閉じ込められた出芽細胞は窒息し、発酵への切り替えを読む余儀なくされる。発酵では糖から得られるエネルギーが少なくなり、糖の炭素骨格がアルコールと二酸化炭素に変わる。ワインやビールを作る場合にはアルコールの生成がきわめて重要な任務となるが、パンの風味はほぼ無関係だ。酵母がアルコールを生成するのは、酸素の不在下で糖からエネルギーを引き出して生育を続けるためである。

ワイン製造業者にとって酵母選びは重要だった。すでに見たとおり、ビンテージワインの風味や香りは長期にわたる酵母の働きで多くが決まるからだ。
酵母の働きの証は、パンの味ではなくパンの形状と食感にだけ表れる。ワイン酵母の仕事が何週間も続くのに対し、四角い小袋に入った粉末から目覚めた数十億個の細胞がパン生地の中で遂行する任務は1時間で完了する。


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