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資本主義問題

資本主義問題   松岡正剛  2021年

松岡正剛、千夜千冊エディションの中の1冊です。

千夜千冊エディションは千夜千冊をテーマ別にリミックスしたもの。

お金を何に使うか。
時間を何に使うか。
何を学び、誰と友だちになるかは大切ですね。
お金は幸せな人生のための手段であるのに、目的化していませんか。
過剰な製造を止めたいものです。

少し引用します。

ハンス・クリストフ・ビンスヴェンガー『金(かね)と魔術』
「ゲーテは、ファウスト伝説の錬金術を、近代国家の「金本位制のもとでの紙幣発行というシステム」に読み替えたのである。そこに貨幣の支配力と財産の所有という幻想が成立しうることを読み取ったのだ。」

ニーアル・ファーガソン『マネーの進化史』
「銀行と債券。マネーは当初はこの二つを両輪にして、しだいに怪しげなアクティビティをもってきた。ここに拍車をかけ、そのしくみをさらに複雑にも予測不能のものにもしていったのが、ひとつには「企業の隆盛」と「株式マネー」(株式上場のしくみ)の膨張である。
(中略)
だが、もうひとつ、そこに加わった重大なものがあった。何が加わったのか、わかるだろうか。銀行、債券、株式についでマネーを狂ったほどに変幻させていったもの、それは保険だ。」

ゲオルグ・ジンメル『貨幣の哲学』
「ジンメルの『貨幣の哲学』は経済学が考えるような貨幣論や通貨論ではない。「生」の社会のなかでの貨幣に集約された人間社会が分化に巻き込まれていく意味の根源を問うための著作だったのである。」
「ジンメルはこう書いている。「貨幣は人間と人間の間の関係、相互依存関係の表現であり、その手段である。すなわち、ある人間の欲望の満足をつねに相互にほかの人間に依存させる相対性の表現であり、その手段なのである」。」

ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』
「大金を借りたから損をしたわけではない。それを元金にして船を航海させて、積み荷が売れれば儲かるようになる。けれども積み荷をしばらく倉庫に寝かせているあいだは、どうなのか。そのときの貸倉庫代はどう見ればいいのか。ここで北イタリアの経済文化を背景に登場してきたのが、いわゆる「借方」(debit)と「貸方」(credit)で出し入れを対照させるという見方だ。複式簿記の考え方のデビューだった。」
「ぼくは複式簿記が広がった理由のひとつとして、この記帳性には一種の哲学あるいは神学が伴っていて、それがメディチ家重視の人文主義や新プラトン主義の実践とみなされたからではなかったかと思っている。記帳が「聖なる行為」とみなされたのだ。」
「今日、世界各地にのこる夥しい宮殿や寺院や公園を、われわれは「世界遺産」とか「観光資源」と呼んで利用しているが、その大半は 君主や富裕家たちの豊穣で放漫な投資感覚によって培われたものだったのだ。放蕩、どこが悪いのか。経済文化はどこかに放蕩や蕩尽をかかえこんできたはずなのである。」
「 会計からはもっと愉快な複数の物語が導き出されるべきだ。かつてはそうだった。」

ブライアン・リアマウント『オークションの社会史』
「ぼくは長らく、オークションが経済文化に対して新たな様相を呈する可能性をもっているのではないかと思ってきた。そのひとつがインターネットの普及と共に広がってきたオンラインオークションだ。ここには売買のための情報編集力や「もの」の価値が相互に決まっていく原初の姿やフェティッシュ(物神力)や希少性の語られ方、そもそも所有情報とは何か、個人と「もの」との関係とは何かということがひしめいて、ひょっとすると今後の経済学を一新してしまうものがあるはずなのである。もっともっと多くのオークション・スタイルが開発されてよいと思っている。」

ジョン・ミルクスウェイト&エイドリアン・ウールドリッジ『株式会社』
「時代は二つの大戦のほうに向かっていく。アメリカは軍需産業と石油産業を中心とする大企業が引っ張った。この国は建国このかた「孤立した共同体の寄せ集め」こそが本質だったにもかかわらず、二つの大戦のうちに「均質の国家と企業の共同体」になっていったのである。
なぜ大企業がこのような力をもちえたかといえば、集約すれば「事業部制組織」と「経営管理主義」が両輪となって強力なカンパニーマン(会社人間)の集団を増産し、それらがつねに「意思決定とその行動化」によって貫かれたからだ。」

ダニエル・ヤーギン&ジョゼフ・スタニスロー 『市場対国家』
「そこで本書が控えめに提案するのは、日本株式会社はせめて五つの基準だけは守ったらどうですかということだ。
①    その政策はおそらく民営化・規制緩和・自由競争に向かっているのでしょうがいったいどの程度の雇用を創出できたのですか。
②    その政策によって成果の配分に公正を期そうとしているはずですが、それを運用する制度は公正なのですか。
③    いったいそんなに自由市場と資本市場を広げていって、国家のアイデンティティをどこであらわすんですか。
④    その政策が拡張していったとき、環境の保全や保護のコストはどこでまかなうのですか。
⑤    いったいその経済政策のどこに人口動態の調整が入ってるんですか。」
「もうひとつ見ておかなければならないことがある。政治家と企業家が国家をどう語ろうとするかということだ。日本はこのジャパン・スタイルのための両方の語り方が一向にお粗末なままにある」

パオロ・ヴェルノ『ポスト・フォーディズムの資本主義』
「ここにはひょっとすると生物学的な状況認識が浮上してきたのではないのか。その生物学的な状況認識の最たるものは、従来は隠されていたネオテニーが世の中に隠しようもなくなってきたということに顕著にあらわれているのではないかというのが、本書が一番走っているところだ。社会の成員が幼稚であることを、あからさまな社会的事態によって隠さなくなったというのだ。
このような見方はアルノルト・ゲーレンが『人間』(法政大学出版局)で先行して発言し、アシュレイ・モンテギューが早くに指摘していたことだったが、ヴェルノはこれをまるごと借りた。幼形成熟をあらわすネオテニーのことがわからないというなら、まずはぼく1072夜の『ネオテニー』を読んだ上で、『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)を参照してほしい。」

1072夜『ネオテニー』


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