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ゆっくりいそげ

ゆっくりいそげ      影山知明  2015年

共感できる内容でした。
以下、引用です。

経済とは元々、中国の古典に登場する言葉で「経世済民(=世をおさめ、民をすくう)」の意であるとされる。国内でも江戸時代には使われていたようだ。言葉としては、政治や生活も含めて「社会をつくる」というニュアンスすらそこには感じられる。
それがいつからか「ビジネス」という言葉に置き換えられていった。
ビジネスの由来は、bisig+ness。Bisigは古い英語で、ここから派生した形容詞形がbusyだから、「忙しさ」をその語源に持つことになる。時間をかけず、労力をかけず、コストをかけず、できるだけ効率よく商品・サービスを生産し、お金を稼ぐ。

ぼくは常々、この中間がいいなと思ってきた。
お金がすべてという発想に与するものではまったくないが、一方で便利さも求めたいし、贅沢だってしたいこともある。売上や利益は、自分の仕事に対する社会からの評価だ。新しい技術やアイデアで世の中が劇的に変化していく様子にワクワクするし、競争は自分を高める貴重な機会とも考える。
ただ一方で、ビジネスが売上・利益の成長を唯一の目的としてしまいがちで、人や人間関係がその手段と化してしまうこと、人を利用価値でしか判断しなくなってしまうこと、さらにはお金が唯一の価値であるかのように経済・社会がまわることで、ときに景観が壊され、コミュニティは衰退し、文化は消費される対象となるなど、金銭換算しにくい価値が世の中から失われていく状況にも忸怩(じくじ)たる思いを抱いてきた。

ビジネスとスローの間をいくもの。
「ゆっくり、いそげ」。
AかBか、ではなく、どっちも。

人が幸福感をもって日々を生きる、そのために経済がある。

現代社会でシステム化が徹底すると、人は考えなくなる。システムの要請に沿って決められたように振る舞うことしかしなくなる。

求められるのは、システムの忠実なしもべであり、操作者(オペレーター)だ。システムの目的に沿って、ときに自分の本心を「殺す」ことさえ憚らないひと。
そうしたシステム操作者としての日常を送っているうち、気が付けば「自分が何が好きか」「自分が何を美しいと思うか」に答えられなくなっていく。自分の中の「ファンタージェン」はしぼんていく。やがてそうした日常に疑問を感じていたことさえ忘れていく……。

この「虚無」に抗うのは極めて難しい。
なぜならその戦う相手の正体がはっきりしないからだ。

結局エンデは、客観性であり「意味の世界」「言葉の世界」から自身を解き放てと言いたかったのではあるまいか。その意味は分からず、その理由は説明できなかったとしても、心の向かう方向へとしたがうこと。
世界を想像し、創造すること。
そしてそれを一番上手にできるのはこどもたちだ。
現代のおとなたちが「虚無」に支配されるのか、それとも「ファンタジー」を育めるのか――その命運を握るのもまた、おとなたちの中に眠るこどもたちなのではないかと思う。

これはクルミドコーヒーにおいても常に意識してきたことだった。ぼくらが提供しているのはコーヒーやケーキといった「コンテンツ」ではない。それは「いい時間を過ごしてもらう」こと。取り扱っているのは「時間」なのだと。

そのためにはどうしたらいいのか?
そう考えたときに辿り着いたぼくらなりの(ひとまずの)結論が、「存在を傾けた、手間ひまのかかった仕事をちゃんとすること」だった。まずこちらが時間をかけること。


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