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東京考察厨#番外編«横浜»

2月は寒い。寒いのにも二種類あって、乾いた風がひりひりと肌を刺す寒さと、湿った空気や雨が内蔵まで染み込んでしまう寒さは、それぞれがそれぞれより寒い。北国にある地元より5度ぐらい高い気温だって、寒いものは寒いのだな。あとのことは、おひさま次第。
引越し先で受け取る寒さの歓迎されていない感じは、同じ街で4年ぶり2度目ともなればひとしお…なんだけど、それがどうやら横浜の本音でないことを知っちゃった今では気分も悪くなく、冷たい雨の中(つまり2個目のほう)寒い寒いと言いながら徒歩35分をものともせず駅前まであめふりをするぐらい。
そう、僕は横浜に歓迎されている!
だって、冷たい雨降りでも横浜は楽しい。その楽しさは、決して新天地への舞い上がりに留まらないと直感させてくれる。三ツ沢公園の脇でも、新横浜通りの中腹でも、あるいは新田間川に沿っていても、濃くて確かなものだってわかる。

いや、実は横浜は、単に不埒者を拒むヒマがないだけかもしれない。横浜には橋が多いな、と思ったとき、多少昂ぶりが落ち着いた。
転居元の大阪には八百八橋と言うけれど、横浜だって橋の街だと思う。むろん、両者が似ているのは人口ぐらいで、地形も、立ち位置も、歴史もぜんぜん違う。
歩けば当たるような橋の多さではないが、横浜の橋は運河を渡っていたり、駅名だけ残っていたり、商業エリア同士の間の海を遊歩道の橋で結んでいたりとバラエティに富んでいる。新に旧に突き出す桟橋だとか、市政の六大事業に数えられた横浜ベイブリッジとか、最近ではヨコハマスカイキャビンとかいうロープウェイなんかも、橋と呼べるかもしれない。
さらに今日みたく、違ったエリア同士を徒歩で行き来すると、必ずと言っていいほど登らされる丘の上には、幹線道路の切通しを跨ぐような生活道路の橋が見つかる。これが一箇所ではなく各地にあり、しかもそれぞれに凝った見た目をしている。

都市地域としての横浜が始まった1つと半世紀前から、横浜は常に忙しなく何かと何かを結んでいた。江戸と外国、陸と海。
戦争に負けてしばらくは日本と外との窓口であったし、便利な海側の土地が、進駐軍の拠点としての役目を終えたと思えば高度経済成長期に突入。以来、現在に至るまで横浜は首都と郊外とのわかりやすい狭間である。
何かと何かを結ぼうとするのに、果たすべき重要な役割は短いスパンでどんどん変わっていって、そのせいで常に心もとない屋台骨に横浜はその身を預けてきた。

1872年の鉄道(新橋〜横浜)開業以来、横浜市中心部の鉄道路線は幾度となくそのルートを変えている。初代横浜駅(現桜木町駅)から埠頭へ、今の汽車道を経由する引込線が建設されたのが1910年。けど、せっかく作ったのに機関車の向きを変える設備の用地が足りず、現横浜駅を建設したうえで、手前から港の引込線までバイパス線を追加して、中間地点に機関車の入換作業用の駅をつくって、桜木町駅(旅客)と東横浜駅(貨物)とを分離して…。港本体の、埠頭のためだけでなく鉄道設備のためにも築堤や埋立をして、何本も橋を架けて、めでたく横浜港駅(今の運河パークあたり)が開業したのは1920年だ。
鉄道だけじゃない。1948年には横浜市街を避けて東京と厚木、相模とを結ぶための横浜新道(神奈川〜和田町)建設が進駐軍から指示された。1957年の開通から60年以上を経た今も、いっぱしの幹線道路である。
1961年に接収地の返還がおおかた完了すると、今度は「中枢としての横浜」「郊外としての横浜」の2つの機能が膨れ上がっていった。東京都心や埼玉千葉は、それぞれ片方を重視したまちづくりを進めたとみて差し支えないだろう。だが、横浜は双方を担うとともに、自身がいわば橋渡し役でもあったのだ。
1965年に提案された有名な「六大事業」−中心業務地区、産業地区、ニュータウン、地下鉄、高速道路、港湾道路‐を列挙するだけでも、2つの機能それぞれを成り立たせるための市政の苦悩が伺える。

しかし、横浜って街はそれを、上手くやってのけた。し、細部で市民への思慮も忘れなかった。
革新系首長には珍しく大規模事業を推進したという飛鳥田一雄氏や、市役所内の縦割り解消に奔走した田村明氏の尽力もあり、ここまで時流に翻弄されてきた横浜市は未来志向の大規模計画を次々と立案。驚くべきことに、当時は100万そこらだった人口が3倍に膨れ上がることを見越しての議論がなされ、「スプロールの防止(港北ニュータウン建設、農業専用地区の指定)」「ウォーターフロント開発(みなとみらい21、汽車道等)」と、21世紀もなお盛んに議論されているトピックを知っていたかのような内容だ。
しかも、「公園の造成と高速道路の地下化(大通り公園)」「大工場の立ち退きと土地の再開発(みなとみらい21)」などは当時の進歩主義の時流に真っ向から対立する計画である。そう、経済成長に一息ついた各大都市が今まさに頭を悩ませている問題の解決策そのものを、当時すでに手掛けていたということである!

こうして横浜は、周辺環境の目まぐるしい変化を経て300万都市となったいま、都心部に緑と遊歩道を、郊外には日本最大級のニュータウンを、またブランド化した近郊野菜を算出する農業専用地を、かつての工業用埋立地には新都心を…云々、を揃えた十全都市として、ある。
もちろん細かい不足や懸案は残っているし、横浜新道みたいに時が経って手狭となったインフラもある。地下鉄を延伸したり道路を作ったり、目下解決中といったところか。
でも、産業のほうを向いた幹線道路によって分断されかねないエリア同士を、繋いでおくように架けられた生活道路の橋、そして遊び心と自尊心を感じる意匠に見る市政の意識は、横浜市の果たす役割が大きいことと、横浜市民のための市であることの両方に最大限コミットしたものだと伺える。

横浜に越してからの一週間、寒さでもなぜか家にこもって荷解きをしようとは思えず、街を歩き回った僕は、濡れた靴に足を冷やしながらも「面白いな」「目新しいな」と感じ続けていた。それは横浜本来の地形とか、慣れない街の愉しさに加えて、狭い土地に目まぐるしく小地域が埋め込まれた景色のダイナミズムに、清々しい調和が見られたからだ。
既に暗くなった家路、横浜駅から洪福寺にかけての中心市街地を望むようにせり出した崖線からは、直下には住宅街、それより向こうに煌々と光るビル街が見える。少し霧のかかった今日などは、距離感が一層強調される。
距離感、と言ったのは遠さよりむしろ、一つの画角に収まる物理的な近さの方である。そして歩いてみてきた記憶と照らし合わせるに、その2つは冷たく分断されているのではなく、業務上の輸送から生活圏としての徒歩連絡まで、生きた動線が互いを排除せずに結ばれているのだ。それは例えば都市高速の地下化なんてキーワードを出さずとも、日常生活に徒歩を取り入れてみれば自ずとわかってくる。

開港から戦後処理、そして現在に至る東京大都市圏の成長にかけて、常に期待される役割を果たしてきた横浜。しかもその表情は、繁華街に、農村に、ニュータウンに、港湾に…色々な方向を力強く向いている。
今なお拡大を続ける何百万人のための大都市は、必要もないのに寒さで震えながら悠々と外を歩く馬鹿者ですらも受け入れるし、突っぱねる暇などないのだろう。
寒々とした日、僕が見た横浜の表情の数々もまた、大都市の内と外、あちこちに橋をかける都市自身の力強さなのである。

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