都会の実存――映画『SE7EN』について

*この記事は以前のアカウントで公開していたものを、書式を改め、再公開したものです。


 連続殺人犯ジョン・ドゥは、自らが選ばれし者たることを僭称し、神に変わり七つの大罪を犯したものに裁きを与えるという大義のもと、街の人々を周到に、陰惨に殺害していく。

 とりあえず、彼の言うことをいったん認めるとしよう。彼は、七つの大罪を犯したものを裁く神の使徒であるのだと。

 しかし、そうであるとしても、彼の計画は破綻していると言わざるを得ない。ひとまず、彼が5人に裁きを与えたところまでは措く。問題は、6人目の被害者、デイヴィッドの妻トレイシーである。彼女は、何の罪を犯したというのか? その時点で、ジョンによって裁かれるべき罪で残っていたものは、憤怒と嫉妬という罪である。彼女は、ジョンの嫉妬により殺され、デイヴィッドの憤怒を惹起したが、彼女自身はそのどちらの罪をも犯していないのである。

 すなわち、ジョンは自らの嫉妬心、あるいはデイヴィッドに対する最大の挑発として、トレイシーを殺害した。それは、神の思し召しでも、必然的な裁きでもなく、ジョンの単なる私心による殺人である。 

 その上、彼はデイヴィッドを挑発し、自らを殺さしめるが、彼は裁きの手を最後に他人に委ねた。たしかに、挑発によって、実質的な殺害の要因を作りだしたのはジョンであるが、それと引き換えに、彼は憤怒したデイヴィッドを罰する機会を永久に喪失した。7人の者が死んだが、彼は憤怒という最後の罪を裁くことができなかった。デイヴィッドは、法によって裁かれるであろうが、彼はおそらく死刑にはならないであろうし、そもそも司法による裁きは、神による裁きとは質を異にする。

 よって、彼の計画には欠陥がある。サマセットとミルズの(合法とは言い難い)捜査による迅速な身元特定がなければ、いかなる計画が実行されるに至ったのか、という問題は興味深いが、少なくとも、変更された計画は、とうてい神の裁きを僭称しうるものとは言えない。サマセットは何度も、犯人が悪魔などではなく、単なる一人の男なのだ、と言っていたが、実際これは、卑小なる中年男の私心による殺人でしかなかったのである。

 ジョンは、身元を問われ、自分が何者であるか、ということには何の意味もない、と答える。しかし、彼は、自分がただの男である、というサマセットが指摘した平凡なる事実を認めることができなかった。彼が、否、ある1人の人間が存在するということそれ自体に、いかなる価値も目的もないのであるという事実を。

 その事実を受け入れられなかったがゆえに、彼は匿名性を確保しながらも、自らが選ばれし人間であることを誇示するようになっていく。

  *  *  *

 この映画の主題は、都市に住まう人々の無関心と絶望ということにある。隣人が、住人が何をしているか、などということには一切関心を払わない。むしろ、そのことが都市では美徳でさえある。互いに干渉し合わず、ただ金銭を―たとえば家賃を―欠かさず納めることが都会でうまくやっていくための秘訣である。

 人々はそれぞれの仕事の単調さと平凡さに、飽き飽きしている。自分の仕事の意義が見いだせず、嫌悪感すら抱いている。しかし、ほかにどうやって生活していけるというのか。いまの仕事を続ければ、生活を維持していくことはできる、これ以下の水準に落ち込むことはない―。そのような絶望は、刑事にも娼館の店主にも共通するものであった。

 こうした都会の人々の無関心と絶望が、連続殺人を可能にした。どのような人物が店に来たのか、あるいはどのような人物が隣室に住んでいるのかさえ、人々は知らなかった。彼らは匿名であり、関係性の網の目のなかにいることを好まない。

 好まないだけなら問題は起きない。しかし、幸か不幸かその関係性のなかに身を置くほかに、自らの存在の意義を見出すことはできないのである。ジョンはそのことに失敗し、捏造された神との関係において自らの存在を位置づけるほかなかった。

 彼は都会の急性腫瘍であったかもしれないが、都会はすでに多くの慢性的な腫瘍を抱えていた。彼は猟奇的な異常殺人者のように見えるが、合理的であり、周到である。ジョンなる男が存在することは偶然であるが、都会という構造のなかで、彼のような人物が発生することは必然であるとさえ言いうる。都会の病理は深い。

  *  *  *

 しかし、病理は深い、と言っているだけでは何も変わらない。現代において、都会から逃れて生活することは不可能である。人々の無関心の問題を説くサマセットに対し、デイヴィッドはサマセットがそのような言辞を述べることができるのは、退職を目前にしているからだ、と応じる。定年を迎えれば、この暗鬱な都市から隠遁し、共同体的な関係の残る田舎で暮らすことができるかもしれない。

 だが、まだ若いデイヴィッドはこの都市で働き、生きて行かざるを得ない。ゆえに彼は、サマセットのように人々の無関心と絶望を非難することはできない。そんな不平を繰り返しても何も始まらないのである。

 一方で、彼の妻のトレイシーは、この都市を好きになることができない。はっきりと、この街が嫌い(hate)だと言う。彼女はデイヴィッドの子を妊娠していたが、堕胎することを決意していた(トレイシーは妊娠し、夫より先にサマセットに相談する。サマセットは、彼女に対し、生まないならデイヴィッドには妊娠の事実を伝えるな、生むなら精一杯甘やかしてやれ、と助言を与える。デイヴィッドが、憎悪を煽るジョンの口から聞くまで、彼女の妊娠の事実を知らなかったことを踏まえると、彼女は前者を選択したと考えられる)。こんな地獄のような都市に、現代社会に生命を与えることなど到底できない、と彼女は考えたのであろう。

 彼女は、5分ごとに地下鉄の振動で揺れる自宅、おぞましい事件が起きる都市、そしてそのせいで深夜になっても帰らない夫に、絶望していた。数十年前、やはり恋人が自らの子を宿しながらも、堕胎するよう恋人を説得したサマセットと、同じ苦しみを抱え込んだのである。サマセットもトレイシーも、もはやこの都市で生きることに希望を見出すことはできなかった。

 その点で、デイヴィッドは、都市で生き抜く意志を強く抱いている。非厭世的であり、現実的であるということもできよう。したがって、彼が連続殺人犯に放った銃弾は、そのような都会の無関心、厭世観、不感症に対する抗議の表明であったのだ。憎悪に狂い、復讐に手を染めた彼に、理性を持て、と人は言うであろう。しかし、妻を殺され、新たな命をも奪われながら、黙って銃を捨てるのは、まさに、都会的無感情である。彼は、そのような陰鬱な屈折した正義と良識を拒否する。
 デイヴィッドは、都市の不条理に晒されたあと、いかに生きていくことができるのであろうか。

 ラストシーンにおいて、事件を経て、定年を過ぎたサマセットは、どこに行くのか尋ねられ、 “I’ll be around”と答える。そして、ヘミングウェイの言葉を引きながら言う。「この世界は、そのために闘うに値する」と。彼はデイヴィッドを見守るように、都市で、いや少なくともその周辺で、ひそかに闘い続けるであろう。

 それは、デイヴィッドの意志と、彼の直面した不条理に触れることなくして、発されることのなかった言葉であったかもしれない。ジョンは、冷淡なる都会をあざ笑うかのように、陰惨な犯罪を繰り返した。サマセットとデイヴィッドは、その冷ややかな都会に対して、いかに戦いを挑むことができるであろうか。

 都市に埋め尽くされた現代社会に生きて行かざるを得ない私たちにとって、より身に迫ってくるのは、彼らを待ち受ける次なる物語である。スクリーンの彼方にいる彼らとともに、私は闘い、生きながらえることができるだろうか。

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