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偽物の「好き」が剥がれたら見えるもの

前回は、「好き」にまつわる呪縛という視点で投稿しました。

呪縛とは、この場合、「本当の自分の欲求や願望を抑圧して、見せたい自分・こうあるべき自分」になろうと、間違った「好き」に向かって努力してしまい、さらに自分を見失うというループを指しています。

充実していいはずなのに、感謝すべき毎日のはずなのに、目標に向かって努力してるはずなのに、「楽しいはずのこと」の前に「やらなければいけないこと」ばかりで、不安・無気力・焦燥感・・・そんな、苦しい割には実を結ばない努力について書きました。

まだ読んでない方は、こちらからどうぞ

この「呪縛」について、さらに掘り下げてみようと思います。
今回は、くどくなってしまいますので、先に謝っときます!
(下書きで文字数カウントしたら、いつもは1000文字ちょっとに収めているのに、その倍の2000字超えでした)

自分を抑圧して相手に合わせる(機嫌をとる)という、サバイバルモードを優先させることに成功してきた「レジリエンスに優れたわたしたち」。だからこそ、心理的に過酷な条件の発育環境の中でも、表面的には機能してきました。そして、いつの間にか、これをしたら相手にor周囲に愛される、という条件付きの図式を学んで、さらにそれを内面化してしまいました。もしかしたら、「尽くす」というパターンがデフォルトになっているかもしれません。

「〇〇じゃなきゃ愛されない」というメッセージを内面化して、その後も「〇〇が叶ったら本当の自分」というように、自分に対しても同じ条件を課して(=トラウマ反応で)生きてきた人は、好きなこと、やりたいこと、目標などを定めるときに、「何者かになりたい」という罠に、たやすくかかってしまいます。しかも、自分らしさを捨ててまで「自分じゃない何か」を盲信的に追い求めてしまいがちなのが、心理的成熟につまづいた人に典型的な反応です。

そんな「わたしたち」は、「好きなことは?」の自問に、よく考えもせず、すぐに「仕事にできること」「人の、社会の役に立つこと」という安直な解釈をしてしまいがちです。好きなことって言ってるのに、「〇〇になりたい」「〇〇(職業)目指してる」というふうに。「貢献」「やりがい」「キャリア」などの装飾が咬まされているわけです。

遠い昔に自分を虐げた周囲の基準(とか無言の圧力とか)に、自分を合わせることに成功した「私たち」、さらにその中でも、それなりの結果を出してきた人たちは、「なんでも頑張ればそれなりにできる」という自己イメージを持っているタイプが多いです。だから、頑張って何かになる・何かを目指す・それで認められる・・・という図式にあまり抵抗がないのではないでしょうか?そして、基本的に見返りとか結果を求める努力が身に染み付いている。結果、意識してなくても、「カッコつく」ゴールを立ててしまう傾向にあります。

なぜ、そんなしんどい努力の方へ踏み込んでしまうのか?
それは、無意識では、まったく自分の感覚・感性・可能性を信じられてないから。
自分を知らずに生きてきたから。
自分とコネクトする機会を失ったまま、喪失感・劣等感・孤独感・焦燥感・不安などに浸かりきって、もがきながら(あるいは無気力になりながら)生きてきたから。
そうせざるを得なかったから。

その「努力すればなれるはずの自分」というのは、わたし達が無意識に欠乏を感じているものをもたらしてくれる理想の自分です。

それが叶えば、例えば・・・

*同じ志向の仲間に囲まれて、孤独とはおさらばできる。
*人の役に立つ仕事でキャリアができて、さらに経済的に自由にもなって万々歳。
*自分を軽く扱った奴らに対して、清々した気分になれる。
*今、自分のいるパッとしない場所から、輝けるところへ駒を進められる・・そのうち一発逆転。

などなど、こんなところじゃないでしょうか?
要するに、孤独から解放されたい(そして、できれば、偶然にも)嫌な奴を見返す結果となれば(無意識で)自我も守られる、みたいな。

こういった下心が幾重にもなっているから、「何が好きか」とか「何が楽しいか」などの、本当の自分の中核に導いてくれるヒントをばっさり無視して、「ああなりたい、こうなりたい」を目指してしまうんです。

そもそも、自分の「好き」をじっくり探してみたり、「楽しい」をしみじみ感じてみたりした経験がゼロ!あるいは少なすぎるのが発達性PTSDの特徴でもあるのです。

そんなトラウマ反応の上に、「何かになりたい」「何者かになりたい」を乗っけてみたところで、当然モチベーションも続かないし、結果もついてこないので、ますます自分を追い詰めて嫌いになって、劣等感をさらに刺激するということになります。

とんちんかんな方向の努力で空回りして、「努力した!」というまやかしの達成感で一瞬だけ安心して、でも無意識に押しやった自己無価値感に依然支配されてる・・・・
だから、「努力」の割にはむなしくて、そこには何も自信につながるようなものがなくて・・で、それをさらにもっと無意識の深いところに押しやるために「もっと大きなこと」を掲げる。で、すでに低い自己肯定感や幸福感は、さらに削がれるばかり。そして・・・年月だけ過ぎ去っても、まだ、「わたしだっていつかは」「今度こそは」と、(人と比べて)自分の幸せを先送り・・・

いったい「好きなこと」は、どこ行っちゃったの?って感じです。

だから、いったんストップ!

ここで勇気を出して向き合って欲しいです。
もし、ここまで(このくどい文章を)読んでくださって、「認めたくないけど、心当たりあるな・・」とちょっとでも思ってくれた方、その素直さに敬服しますし、飲みくだしにくい真実に心を開いてくれたことに、本当に感謝します。

そこで、次回はいくつか質問を掲げますので、深く向き合って欲しいです。
一度、「好きなこと」に関して、正直に自問自答して欲しいです。

今回はいつもの倍の長さになってしまったので、
また次回!

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