集中の質

集中の在り方

自粛生活が続いてひと月弱。近くの散歩やランニング、畑での農作業以外は殆ど外に出ていない。

もともとはインドアだったので、それほど苦になっていない自分がいた(生活は苦しいが)。

ただ、こんなに外界との交流がない状態は今までにないので自分の内面を掘り下げるチャンスだと思い観察している。これも立派な稽古である。


内面を掘り下げていったときに、集中の在り方についての考えが浮かんできた。

どういう事かというと、今、自粛生活の中で殆どが家の中で過ごしていてとても怠惰になっている自分、そして何かやらなければと駆り立てている自分、ここは何か変化があると楽観している自分、などなど様々な側面の自分が垣間見えた。この状況の中で普段生徒さんにお伝えしている、日常を稽古にするという事を改めて考え直してみようと考えたのである。そんな時に、頭の集中と身体の集中は質が違うものだという実感が突然舞い降りてきた。

頭の集中は「頭脳集中」。

身体の集中はそのまま「身体集中」と呼ぶことにする。

集中を区別したのは、それなりの実感があったからである。家にいて時間もあり、読んでいなかった本や読みたい本をネットで購入して読んでいた。また、今は自粛期間なのでオンライン上でも書籍が無料公開されているものもある。本を存分に読める環境にいるせいなのかはわからないが、突如として頭のスイッチがワーッと入りだしたのである。頭脳集中と瞬時に気付く。

普段稽古している時の状態。これは身体集中。

書いてみればそんなもの当たり前ではないかと自分でも思ってしまうが、実感がともなうのと知識で知っているだけでは雲泥の差なので、実感が伴った事を書いている。

これらの集中の状態の違いは何かというと大まかに言って「意識下」か「無意識下」なのかの違いにあると思う。

頭脳集中は意識下。

身体集中は無意識下。

あくまでも目安だが、これは分かりやすいのではないかな。

甲野先生との稽古では、集中の状態が普段とは全く違う事に何となく感づいていたが、ここにきて違いがハッキリしてきた。この話を先日甲野先生に話してみたら、「それはあなたの影観法でしょう。」と言われて更にその先が見えてきた気がした。これは身体集中と認識している。


大まかに言うと頭脳集中は何か物事を捉える時に重宝する。思考、整理、仮説、思いなど。


身体集中とは問いかけである。問うとその時の答えを出してくれる。それが良いとか悪いとかではない。身体に聴くとよく言われるが、湧き出てくるものを見過ごさないで受け取れるかなのだ。体験や経験と言ってもいいのかもしれないが、ここではあえて問いかけとした。


この辺りが自分の中で明確になってきた。



魚影から見えてくるもの

私が考案した武術の動きで『魚影(ぎょえい)』という技法がある。前腕を魚の動きのように使うこの術理は、今では腕全体にまで広がっている。この魚影に気付いた時、これはこうだからこう!と論理的な段階を追って発見したのではなく、突然降ってきたかのように現れた動きだった。もちろん前段階として魚影に気付くまでの伏線はあったが、気付くときは突如として気付く。この場合は「ドリブルの手」と名付けたバスケットボール等でドリブルしている時の手の状態が居着いていないと気付いて、その居着いていない状態をもう少し長い時間継続できないかとの課題が自分の中にあったからだと思う。課題を身体に問いかける。問いかけに対しての身体の熟考、答え。瞬間的に得られるものもあれば、お酒の様に寝かせて忘れたころに突然出てくることもある。身体集中にはそのような面が垣間見える。

もちろん「頭脳集中」と「身体集中」の両輪がバランスよくいっていればいいのだが、これがなかなか難しいものである。

そのものを知らないと動きようがないし、そのものを知ったからと言ってそのものを本当の意味で知ったとは限らない。経験や体験、学びを通じて深化させていく事で知識が智恵になる。

現代では「頭脳集中」が過剰になりすぎていると言われているし、私も実際そう感じる。

それは正解を他人に求めている事が多いことからも言える。

「あとどれくらいやればできるようになりますか?」

「これは何回やればいいですか?」

自分の身体を標準に合わせる前に、身体に目を向けてみると違う世界が見えてくる。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?