紀里谷監督最後の作品「世界の終わりから」を見て
凄い作品だ。
見終わって腹から湧き出た感想。
こういう作品に限って、商業的にはひっそりしてたりする。
多分、紀里谷監督のファンじゃなければ、あまり知っている人も少ない作品なのかもしれない。
しかしこれは、、何て言うか見る人が見たら心を揺さぶられるに違いない。
今回の旅のテーマは「世界の終わりを望むか愛を取るか」
映画を観た方もそうでない方も、今の世界と重ね合わせながら読める内容となっています。
※一部ネタバレありますので、映画の内容を知りたくない方は、映画を見てからお読み下さい。
五つのカード
今、世界の節目節目で五つのカードが引かれている。
①現状維持
②自然災害
③パンデミック
④金融崩壊
⑤戦争
今のところ①が多く引かれているけど、②〜⑤が全て揃うと「リセット」が発動する。
世界は危機と隣り合わせだけど、美味しい物を食べてスポーツで盛り上がって性欲を満たせればそれで良し!それが大半の日本人の頭の中である。
皮肉でも何でもなく、それが事実である。
うーん、厳しい。
楽しいことを考えること、欲を原動力に頑張ること、それ自体は良いことだ。
だけどそれは平時のときの話しであり、今まさにことが起こる直前にあるのに、目を向けるところがずれているように思えてしまう。
自分勝手な大衆
「世界の終わりから」の主人公は、17歳の女子高生ハナ。
何だかかわいそうなくらい、不遇な状況をただ一生懸命生きている。
そこにあるとき「世界の命運」が託される。
「私なんて、、」と言いながらも、何とか真っ当しようと頑張る。
それなのに、いわゆる「大衆」は酷いものだ。
いじめっ子の同級生、総理の座を狙う官房長官、最後押し掛けてくる鉄パイプを持った群衆、これらは人間の醜悪さを絶妙に描写していると思った。
「自分さえ良ければいい」
この想念が世界を悪い方向に導き、更に自分自身にも跳ね返ってくるにも関わらず、自らを改める素ぶりもない。
「こんな世界、無くなっちゃえばいいのに」
ハナがそう叫ぶシーンがあるが、私も正直同じことを思った。
私は熊本に住んでおり、最近TSMCバブルらしく、それ関連の話しをよく聞く。
「外国人に不動産が高く売れる。」
そんな儲け話しばっかりで、地下水汚染の問題など興味もなさそうだ。
そもそも何故わざわざ海外からメーカーを呼ぶのか?
今の国は、明らかに意図して主導権を海外に渡しているように思えてならない。
そんな普通の感覚、意見すら全て
「金が儲かればいい」
でかき消される。全ての人がそうとは言わない。
でも、本当に「自分さえ良ければいい」という人が悲しい程に多い。
愚かな闇に輝く愛という光
「自分さえ良ければいい」
実は今これが皆に試されている。
その考えが自分の生活習慣、行動に反映され、考えを改められない者は寿命が縮むように設定されている。
それを教えてあげることはできない。
本人が気付いて本人が「必要としたとき」はじめて伝わる。だから私はこの手の話しは自分からは一切しない。
気付くことなく死の旅へ歩む人達は、私には死神が憑いているように見えている。愚かな闇に潜む「自分さえ良ければいい」とギラギラした目つき。
「世界の終わりから」でも、これでもかというぐらい愚かな闇が描かれる。
その中でもハナは優しい「光」に出会うが、それすら闇に奪われる。
絶望しかない。でも、そんな中に一筋の光を見る。
それはハナそのものを包んでいた両親の愛。
ハナの寿命が実は7歳までで、両親が自分達の命と引き換えにハナを生かしたという真実。
私も今7歳の息子がいるが、私ももし息子の命と自分の命が天秤にかけられたら、迷わず自分の命を差し出すと思った。
人間は愚かだ。だけど、そんなことを普通に思える。私じゃなくたって、親であれば皆そうするだろう。
そんなことができるのも人間ならでは。
愚かな中にも、綺麗で輝く光もある。
それが愛だ。
まとめ 世界の終わりを望むか愛を取るか
この質問をされたら、あなたはどう答えますか?
普通は「愛」と言いますよね。でも、もしあなたが不運な状態であればどうでしょう?
自分の不運、不幸をさておき、人の幸せを願えるだろうか?
親が子を思うが如く、他人の幸せを真に考えることができるのは「持てる者」であり「持たざる者」は余裕がないから自分のことしか考えることができない。
これから両者の差が益々開き「持たざる者」が増えていく。下手すれば、日本の中にいて外国人に命令される未来が待っている。
今のままでは厳しい。
だから水面下で色々な人が動いている。
あなたは、その危機感を感じていますか?
こういう話しを聞いて、鼻で笑う人もいるだろう。
でも、もうそういう人に構っている時間はない。
しかしながら、それらの人達を切り捨てるのも何か違う気がする。
世界の終わりを望むようで愛に望みを託す、、
矛盾するようだけど、そんな感じ?
あなたは今まで生きてきて、自分のことはさておき「この人の為なら」と思える人はいましたか?
今、若者達は結婚を望まないらしい。
社会の変化、色々な理由はあるだろう。
でも間違いなく人口は減っていくし、それは「この人の為なら」が減っていくことにも繋がる。
人が人であり光を見出すには、人と人との繋がりが必須だ。バーチャル空間のAIでは、それは担えない。
私は「この人の為なら」を考えると、何だか心が温かくなる。
辛くきついときほど、人の優しさは心に染みる。
この世界に微かでも「この人の為なら」という光があれば、私達は復活していけるのかもしれない。
日本語の最初に「あい」「愛」があり、聖書には「最初に言葉ありき」と表記がある。
そして「アダム」と「イブ」のそれぞれの頭文字を取ると「アイ」
たまたまの偶然かもしれないけど、何かロマンチックだから、そういうことにしとこう。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
また次の旅でお会いしましょう。
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