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ひとりで生きる覚悟

藤堂志津子さんの『大人になったら淋しくなった』というエッセイが好きだった。結婚せず、ひとりで生きる中年女性の暮らしを何度も繰り返し読んで、私もこんなふうになるんだろうな、と思っていた。自由な気楽さだけでなく、それに伴う不安や淋しさも、すべて受け入れてひとりで生きよう、という覚悟をしていた。私にはひとりが合っていると信じていたから。

その後、夫と出会って、結婚して、子どもを二人産んで、色々あったけど今も一緒に家族でアメリカで暮らしているなんて、想像もしなかった。子ども達は大きくなったけど、まだまだ自立まではほど遠く、夫とも今のところ別れるつもりはない。それでも、ひとりで生きることについて時々考える。

夫の精神疾患に振り回されてどん底にいた時、何度も別れることを考えた。別れてひとりで生きることを現実的に考えていたけれど、辛くて辛くて、踏ん切りがつかなかった。その理由は、すべて病気のせいと分かっていたから。別人のようになっているけど、本当の夫は優しくて、面白くて、誰よりも私のことを愛してくれているのを知っていたから。でも、このまま別人のままになってしまうなら、もう一緒にはいられない、と何度も別れを覚悟したのも事実。 

夫と別れてひとりで生きるのなら、一度目のどん底の時は、子ども達を連れて日本に帰るつもりだった。でも、この20年ほどで、日本にはもう帰る所も行く所もなくなってしまったから、二度目の時はアメリカでこのまま暮らすつもりだった。ひとりで、小さなアパートでも借りて。どちらの場合も、身を切られるように辛く悲しい覚悟だった。夜も眠れないくらい。

以前のような悲愴な覚悟ではないけれど、最近、ひとりで生きることについて、なぜか妄想する。

たとえばこの先、もしも夫と別れても、子ども達がいるから、もうひとりで生きるわけではないのかもしれない。優しい子ども達は、きっと自立しても私に会いに来てくれるだろう。それは私が想像していた、ひとりで生きる中年女性の暮らしとは大きく異なるけれど、ひとりで暮らすことに変わりはない。いつからか、私にとってひとりとは、夫がいないということになっていた。夫の存在が、こんなにも私の中で大きく占めているなんて。結婚って不思議。

夫が先に亡くなって、私がひとり残されることもあるだろう。そうなったら、自分の望み通りのミニマルな暮らしができる。いらない(と私が思う)ものを次々と買われることもないし、書類がテーブルの上に放置されてどんどん溜まることもない。使いっぱなしのグラスや食器も、出しっぱなしの洗濯物も、もう見ることはない。

でも、高い天井にある電球を替えたり、開かない瓶やボトルの蓋を開けたりしてくれる人もいない。子ども達の問題を相談したり、子ども達が言ったりやったりした面白い話を報告して笑い合ったりする相手もいない。職場で腹が立つ出来事があっても、良い出来事があっても、話す相手はいない。

ひとりで生きるっていうのは、結局そういうこと。自分の好きなように暮らせる反面、誰も助けてくれない不自由さや誰とも分かち合えない淋しさを受け止めること。

何でこんなに真剣に、ひとりで生きることについて考えているのか分からないけど、終活と同じくらい、ひとりで生きる覚悟もしておこうと思う。

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