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壊れた眼鏡

文字数:2561字 

『人間にはただ一度死ぬことと、そののちに裁きを
受けることが定まっている。』(新約聖書)

 この記事は冒頭にあえて聖書の言葉を載せてみた。特別な意味はないのだが、たまにはいいかな?と感じただけのことだ。気になさらず、記事を読み進めてください。「日常あるある」なお話です。


 私はある朝出勤間際に、自分の失敗のために慌てる羽目になった。数日前に購入した車を前の日の夕方、おもちゃをいじくる子供のようにあちこち触りまくっていた。それまでの車は娘が引き取ることになっていたので道路に置いて、自分の持ち物を新しい車に搬入していたのである。いつもと違う流れに合わせ過ぎたのか、いつの間にか2つの車のキーを座席に置いたままロックしてしまっていた。
 朝慌ただしく出かけようとして、いつものキーの定位置を探すが見つからない。車庫に出かけてみると運転席に真面目そうにキーホルダーが座っている。第一、家の車庫でロックをしたことは殆んどないのに、その日に限って無意識にロックしてしまっていた。幸い娘の(ものになる予定の)車のスペアキーを別の場所に置いていたので事なきを得た。今の時代なら殆んどそんな失敗をすることはない。今はキーをカバンに入れたまま運転できる便利な時代になっているからだ。
 ところで、車のキーのことで昔した大失敗が、この時のスペアキーの保管の伏線になっているのだ。
夏も終わろうとしていた頃、母が珍しく阿蘇に行きたいというのである。私は母の珍しい希望に合わせることにした。母がどこかに行きたいと自分から言うことが殆んどなかったからだ。両親と約束をして、いざ出発とばかりに両親を迎えに行った。
 荷物を運びこんでさあ出発という段になって、運転席に座り、ポケットからキーを取り出そうとして手探るが出てこない。大慌てで探し回るが見つからない。最後に思い出したのが、両親の荷物を両手で運び込んだ時の手の感触だ。荷物と一緒に手に持っていたキーも同時に離したのだ。そういうわけで、キーは車のトランク内ということになる。当時の車はトランクと座席との間には壁があって全く隔離されているのである。2時間の悪戦苦闘の末に、人の助けで車のトランクを開けることが出来た。出発を前にしてもうクタクタになっていた。
 それ以来、私はスペアキーを必ずどこか別の場所に持っておくことにしていた。おかげでそれ以来、車のキーを車内に閉じ込めてしまうという失敗はそれ以降は起こしていなかった。
 スペアということではもっと困ったことがある。
 子供がまだ小さい時のことである。夏休みに家族旅行をしようということになった。楽しい思い出深い旅行であった。当時の国民宿舎に泊まって、温泉に浸かって、心の洗濯をして、家族で笑って、良い旅行となった。
 旅行に温泉はつきものである。私は自宅のふろ以外では必ず眼鏡をかけて入ることにしている。眼鏡がなければ段差が見分けられずにころぶ危険があるからだ。それよりも何よりも眼鏡がなければ折角のすがすがしいはずの温泉も台無しである。
 それでも顔を洗う時には、メガネを外さなければならない。そこで鏡の前の棚に眼鏡を置くことになる。顔を洗って、無意識に手探り状態のまま眼鏡を探す。眼鏡に指が触れた時には、メガネが棚から滑り落ちる時というわけだ。滑り落ちた眼鏡は私の足元で何故かグシャッと音を立てる。拾い上げてみると、右目のレンズは見事なまでの蜘蛛の巣状態だ。その眼鏡をかけてみる。バラバラにならなかったのが不幸中の幸いというものだ。私の左目は中心部の網膜が傷ついて見えないから、右目だけが頼りなのだ。
 風呂から上がると早速眼鏡屋さんを探す。私の目の近視の度は相当きつい。眼鏡屋は見つかっても私の目にあうレンズは注文しなければならない。そこで諦めることになる。私にできる手立てと言えば、蜘蛛の巣状に割れたレンズが砕け散らないようにすることだ。
 セロテープを貼ったレンズを通しての景色はどことなく異様だ。それでもメガネ無しよりましだと自分に言い聞かせて国民宿舎を出発する。そんな日は何故か雨になる。私の何かを試すかのように、猛烈な勢いで雨が降って来る。

 軽自動車に乗った私の家族4人のハラハラする帰路の旅が始まる。蜘蛛の巣状の曇りガラスを通しての運転席から見た外の道路は、謎に満ちている。さらに悪いことには、その得体のしれない眺めを大粒の雨が遮る。雨を避けようとして左右に水を払いのけようとするワイパーまでが行く手を遮る道具のように思えてくる。
 ハンドルさばきがぎこちなくなる。運転席から身を乗り出すようにして前方に目をやる。普通の状態でも4人を乗せた軽自動車でやまなみハイウェイを走るのはつらい。
 喘ぎあえぎ登る軽自動車は息も絶え絶えだ。降りつける雨。その雨を払いのけようと必死に動き回る忙しそうなワイパー。その動くカーテンを通して少しでも前方を見ようとする虚しい視力。その弱い視力の前に立ちふさがるセロテープ。ぼやけた映像に常に食い込むレンズにできた蜘蛛の巣。
 数時間の苦闘の末に辿り着いたドライブイン。昼前にもかかわらず取る昼食。身体中にあふれ出る疲労。そこまで無事にたどり着いた安堵感。
 私の車にはその時以来、常に緊急時用の代用メガネが入っている。旅行に行く時にも、カバンの中に緊急用メガネが用意されている。使い古しの度の合わない眼鏡だが、役に立った時もある。そのガラスのレンズが入った眼鏡は今も現役で時たま役に立つ。
 スペアーがある時には、それでも何とか生きていける。しかし、スペアーが聞かないときには困りものである。私たちの人生はスペアーが効かないものの代表だ。スペアーが決して見つからない人生と言う道を、私たちはどんな風に歩けばよいのかが分からなくて、回り道をすることも少なくない。
 神様はたとえ回り道をしたとしても、周りまわって最後にでも神様の所に戻れば大丈夫だと言ってくださっているのではないかと思う。そう信じる時に神様は私たちに自分の現在地を示してくださるのではないだろうか。現在地さえ分かれば、聖書という地図が私たちの進むべき道を示してくれる。神様の指し示す地が見えてくること間違いなしである。

(2023.2.12)


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