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おやじの裏側 9 ( ix. オレ、就職する)

おやじの教訓
「就職して7年は何があっても我慢せよ」


なかなかSG荘近辺から
脱却できないので、
途中を飛ばしたくなった。
 
これは自分史のつもりはない。
それを実際に、歴史を飛ばすことで
証明することにした。
 
オレは・・・
大学を卒業して
隣町の私立女子校の
英語教師として就職した。
 
実は、卒業の一週間前に
結婚式をして
就職する学校近くの
アパートに引っ越していた。
 
その経緯は
なかなか独特だったと思う。
 
大学生だったので
オレにはお金がなかった。
結婚式が終わった時、
オレの手元には5000円ほどしか残っていなかった。
 
だから、結婚式以外は
披露宴も新婚旅行もしていない。
 
以前書いた記事の中に
大学生を教えた時に
そのことを話すと
とても叱られた、と書いた。
結婚指輪も交換していなかったことも
学生の叱責の対象となった。
女子大学だったからだろう。
 
ところで、
オレが就職を決めたのは
大学3年生の2月頃のことだ。
院長に面接に行ったのだ。
 
そして、合格などという明確なものではなく
口頭で就職を認めてもらったのだ。
本当は詳細はもう忘れてしまっている。
持参したのは、大学の成績証明書だけだった。
 
就職が決定したときに
おやじはオレにこう言った。
心配だったに違いないのだ。
 
オレは兄弟の中では
陰でいろいろ言うタイプではなかった。
ストレートなのだ。
ほめるのも怒るのも
ストレートなのだ。
 
「教師になったら、
7年間は黙って仕事をするんだぞ。
その時におかしいと思っても
7年たってみると、
あ~、そういいうことだったのか、
なるほどな、と
気が付くことがあるはずだからな。」
 
「うん」
と言ったか、
「はい」
と言ったか、覚えていない。
短い返事をしたことだけは確かだ。
就職が決まってほっとしたからだ。
 
オレは卒論も3年の時に書き終えていた。
大学生生活は燃え続けた気がする。
オレの教師人生に
大いなる肉付けができた4年間だった気がする。
 
初めて就職先に
仕事として赴いたのは
4月2日か3日のことだ。
それからは緊張の日々だった。
 
職員会で紹介され、
その後の教科会で紹介され、
またその後の学年会で紹介された。
紹介というより
よろしく会だ。
 
どこの会に参加しても
何が進行しているのか
さっぱりわからない。
 
分かったのは、
自分が高校1年生の担任に当たっていることだけだ。
学年担当者5人と打ち合わせだ。
当時は副担任制度はなかった。
 
下足箱が生徒分あるかの確認、
机、イスがそろっているかの確認。
その他、入学式後の
最初のクラスでの伝達事項の確認。
しなければならないことは
いくらでも湧いてきた。
 
当然、オレにはわからないことだらけだ。
分からなければ、何度でも学年主任や
担任教師仲間に聞いて回った。
オレはわからなければ
すぐに聞く人間だ。
 
疲れ切って家に帰った。
学校から真っすぐ坂道を降りる。
そこにあるアパートを借りたのだ。
1Kに妻と過ごすのだ。
 
妻は2つ隣の町で仕事をしていた。
帰りは遅い。
周りが薄暗くなっても
帰ってこない。
 
オレは待ちきれずに
1.5km離れた駅まで歩いて迎えに行く。
電話もスマホもない時代だから、
お互い連絡なしだ。
 
帰りは自宅までの徒歩だ。
そんな毎日が
いつの間にか生徒に知れ渡る。
そんなことは構やしない。
 
1Kの部屋は狭くはない。
Kと言っても、台所は、流しの形しかなかった。
借りてすぐに流し作りだ。
ハンダごてを借りてきて
慣れないハンダ付けだ。
それも含めて3帖くらいだ。
 
畳の部屋はやや広かった。
全体としては7帖くらい。
そして、一段上に少し広い縁がある。
まるでSG荘を思わせてくれる。
窓外には海が見えた。
今はそこに道路が走っているが、
海が見える景色はうれしい。
 
仕事の方はわからないまま。
入学式後の初めてのホームルーム。
一応、大切なことは板書しておいた。
三分の一が公立中学からの進学だ。
残りが同じ法人の中学から来た生徒たちだ。
これが心強い。
 
好奇心で満ち溢れていた。
みんな、オレを見つめてくるのだ。
どこを見ても、しっかりと目が合うのだ。
にこにこした目だ。
その中に不安な目もいくつかある。
それが公立中出身者の目だったかもしれない。
 
実はオレの娘も公立中出身者だった。
入学式の翌日に登校する。
 
「おとうさん、不安っちゃ」
「なんで?」
「だって、公立出身の方が少ないんよ」
「そうだね」
「昼休みが・・・ふあん」
「あぁ、そうかもね。でも、すぐ慣れるよ」
「一緒に弁当食べる人がいるやろか」
 
その学校では、弁当はどこで食べてもよかったのだ。
学校の庭でも、教室でも、運動場でも。。。
 
「だって、中学から上がった人たちは
お互い知り合いだから、固まってるし。。。」
 
オレはそんなことを心配しないといけないことに
気が付いていない初出勤だった頃のことを
思い出した。
 
娘が入学してきた頃は、
既に高1の担任は何度か経験していた。
1週間もすれば、誰が公立出身なのか
分からないほど混ざり合えるのだ。
 
「おとうさん、今日は楽しかった~っ」
 
帰ってくるなりの最初の言葉だ。
 
と言っても、オレが帰ってからの話だ。
 
「弁当はどうだった?」
 
「それがね、誰かが、
公立出身者全員で食べようやって言ってくれて・・・」
みんなで机を丸く囲んで、食べた、と
嬉しそうに話してくれたのだ。
 
オレは安心した。
どうせそうなることは経験上
分かってはいたが、内心ほっとしたのである。
 
おやじの
「7年間はおかしいと思っても
黙って働くように」

という言葉の意味は
実はその後の仕事の上で
大いにオレを助けてくれた。
というのは、
納得できないことが
次々と降り注いできたからだ。
 
オレは黙って文句も言わずに
理不尽なことにも黙々と仕事ができたのだ。
 
さて、どういうことがあったのかを
この記事では書くことができない。
そのうち、必ず書くつもりだ。
本当は次の記事で
書いてみたい気がしてはいるが、
頭の中がまとまっていない気がする。



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