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パリ・オリンピック

よもやま話

気が付いてみると、今日(7月26日)からパリオリンピックだ。
 
オリンピックとは全く関係のない話のオンパレードをお許しいただきたい。
女性のすりグループに関しては、すでに「海外での見知らぬ友 3」で姉の武勇伝も差し込んで書いている。
 
とは言え、テレビをつけるとパリの街並みのすさまじいほどの徹底したテロ対策だ。あんなに人が大勢いるはずの場所が警備担当の警官たちがやけに目立つ。
 
ここでは「ブレイキン」競技が実施されます、などと言いながらカメラが舐めるようにその場所を映し出す。私の記憶の引き出しがすぐに開けられる。
 
懐かしい。
 
バトビュスに乗って移動した景色が両岸に流れて行く。
一人で座って疲れをいやした場所が映し出される。
女性すりグループに寄られて追い払った芝生の辺りが写されると、(そうそう、あの辺の芝生のところだったっけ)などと心の中でつぶやく。前方にはエッフェル塔がそのデカい姿を守り神のようにどっしりと4本の脚で踏ん張っている。
 

地下鉄のチケット

私が困らされたものの筆頭は、地下鉄のチケットだ。
 
私は徒歩を除いては、基本的にバトビュス(船)を移動手段として動いた。しかし、時には地下鉄移動も併用したのだ。それは10枚綴りの回数券を買ったからだ。
 
初めて地下鉄の駅に行ってびっくりした。改札口は無人。それだけではない。無数のチケットが落ちているのだ。意味が分からない。改札口を跨いだり潜り抜けたりして無賃乗車。私は訳が分からず、使用済みのチケットもポケットに戻したりした。降りるときにいると思っていたのだ。日本での用途がなじんでいるからだ。
ところが、次に乗るときにポケットを探ると、取り出したチケットが未使用なのか使用済みなのか分からなくて困った記憶がある。
 
妹に聞くと、あれは用心しないと大変なことになる、というのだ。
 
無賃乗車がいないか、たまに駅員が巡回してチケットの点検に現れるらしいのだ。妹は何も知らない頃だろうが、駅員から無賃乗車を疑われ、多額の罰金を払わされたと話してくれた。
 
私は今でも何故改札口や車内にチケットが散らかっているのか理由が分からない。もしかしたら降り口のどこかに使用済みを捨てるゴミ箱があるのかもしれない。

自転車専用道路

私は一人旅はアメリカでもカナダでも徒歩を基本にしている。
最近は日本でも自転車専用道路を設置しようと努力している。何といっても狭い国土だから、実際には歩道の中に作ってみたり、車道脇にそれらしい車線を作ったりしている。
 
私がパリに行った2014年は、まだそんな話はなかったように思う。
 
それはそうと、この話題に入ると忘れられない話がある。それはまたもや姉本人の武勇伝だ。
 
この話は武勇伝とは言えない。何故ならば、本人の大失敗の話だからだ。
 
パリ滞在中に、姉は事件を起こしたのだ。すりにあったという武勇伝の方は、明らかに「事件」だ。
 
だが、ここで扱う話は本当は「事故」なのだ。
 
この事故のせいで、彼女は帰国を伸ばさなければいけなくなったという話だ。それも1か月ほどの延長滞在だ。
 
私は姉の事故は起こるべくして起こった気がしてならない。
 
というのも、私がパリに出かけた時、同様の事故を起こしかけたからだ。
 
パリの自転車専用道路が悪いといまだに思っている節がある。勿論場所に寄りけりなのだが・・・。
 
もしかしたら私自身の勘違いかもしれないのが情けない。
しっかりと見てくればよかったのだが、私の記憶には緑地帯の中にその専用道路なるものがあった気がしている。緑に囲まれたところに専用道路が走っているという感覚だ。
 
「緑→専用道路→緑」という感じだ。でも、専用道路が目に入りにくい姿になっているような気がする。
その道路をものすごいスピードで自転車が走ってくることに気づいた時には、ぶつかりそうな状態になってしまったのである。きっと姉も同じような状態で、ぶつかってしまったのだと思った。
幸い、私の場合はすぐに歩くのを停止させたため、辛うじて自転車がフルスピードで目の前を走り去っていったのだ。
自転車の乗り手は大きな声で威嚇するように言葉をぶつけてきた。
私も不注意だったのだと反省しきりだが、あの場所で、たとえ専用道路とは言えあのスピードはないだろうって話になる。ただし、私の勝手は判断だ。
 
姉はどうだったかというと、見事な脚の骨折という事故だったのである。
 
私はその話を聞いていたのに、似たような事故を起こしかけたという点で反省しきりだ。
 
 

地下鉄は音楽の宝庫

アメリカはストリートパフォーマンスの宝庫だ。LAであろうとNew Yorkであろうと、構わない。特に地下鉄の通路は楽しみだ。大きな公園も期待できる。
その中でも地下鉄の通路は楽の音がムッとする空気と騒音の中で心を癒してくれる。
 
パリでも同様だ。
地下鉄の乗り換え通路で女性のパフォーマーがいた。見かけも自信なさそうだ。その見かけに見あう上手でない音楽が流れてくる。
 
そうかと思えば、バスティーユ広場に近い駅では、少し広い空間が通路の中にあった。
その通路で演奏しているのはグループだ。パリ滞在中、そこを通る時には彼らの音楽をじっと聴いていた。人々の行き交う騒音が気にならないほどクリアに聞こえてくるのだ。
 
パリでは演奏許可が出るのは、試験のようなものか、オーディションのようなものがあって合格しないといけないと妹から聞かされた。
前述の「上手でない女性パフォーマー」はもぐりかと勘ぐってしまったくらいだ。
 
このグループの音楽は素晴らしかった。それで私はデジタルビデオカメラに収めようと相当な時間、その場所に留まった。

あまりに長くビデオを回していたので、演奏者のリーダー的な人が演奏しながら近寄ってきた。
 
「オレたちのCDを買わないのか?」
 
「・・・・・」
 
私はもちろん、取り終わってから楽器ケースの中に幾ばくかのお金を入れてきた。
 
帰国してから、ウキウキ気分でその映像を楽しもうとした。いくらビデオを回しても、あのグループが写っていなのだ。
 
よくある(私自身の)失敗だ。
 
スイッチを入れた気になって、入っていないのだ。がっかりだ。がっくりだ。「時間を巻き戻してもらいたくなる。」
 
New Yorkのセントラルパークでもやってしまっている。
確かに回っていたのだが、自分の足元が写っているのだ。私が歩いているときの足元が映し出されていた。
つまり、パフォーマンスを撮っているつもりが、スイッチはオフ状態。その後、撮影が終わって切ったつもりがオン状態で歩く自分の足元を真面目に映し続けてしまったというへまだ。がっかり100%だ。

中継を見ている

私はパリオリンピックの中継を見ている。
いろいろな情報過多が嫌で、音声を「オフ」にしている。メインコメンテーターのテンションハイ過ぎるコメントが嫌だからだ。
 
しかし、黙って放映する勇気はないに違いない。そんなことは許されるはずもないから、私は反対するつもりはない。

ただ単に、自分がバトビュスに乗って周りの景色を眺めまわしていたことを思い出したいだけだ。
 
たった一度しか行ったことのないパリだからこそ、思い入れは深い。
 
今写っているあの場所では、警察官が自転車ですりか何かを追っかけていたなぁ、などとオリンピックにふさわしくない邪念が心を取り囲んだりしている。
 
確かにあの場面に居合わせたい気持ちがないわけではない。
しかし、全部を自分の眼で見ることはできない。
 
アメリカで「アメフト」の試合を生で見に行ったことがある。
しかし、選手の多さでボールがどこにあるか分からない。
結局2度見るだけで、それ以降の試合は地方テレビの画面を見る方がはるかに試合の様子を感じ取ることができた覚えがある。
その時は、解説が大きな役割を果たしてくれた。
 
そうこうしているうちに大合唱だ。聖火点灯だ。
あえて録画はしていない。
早朝に起きてまで生放送を見たわけでもない。
今この時間(7月27日午前10時前後)を堪能したいのだ。堪能するために、現在の画面はCM中なのだ。
 
バッハ会長の挨拶を遠く耳にしながら、バトビュスで出会った母親と赤ん坊を思い出している。
イスの舌にもぐりこんだスズメを思い出している。無事船の愛が窓から脱出出来て拍手したい気分だった。
 
オリンピック三昧とはいかないに決まっているが、日本選手の活躍をきっとどこかのTVニュースで見ることだろう。そしてどこかの誰かと喜びを共有することだろう。
 
そろそろ最後のクライマックスだ。おとなしくTVに集中することに決めた。
 

(表紙画像はエッフェル塔のビーズアート作成途中の画像)


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