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おやじの裏側 xvii(19.アメリカかぶれ)

おやじがアメリカに「伝道旅行」に誘われたという話を「朝ドラ;”トラちゃん”が出会った傷痍軍人の近くで」(2024.8.3公開)という記事の中で、Hさん一家のお世話になったことはすでに書いた。
 
その記事は「おやじの裏側」シリーズには含まれてはいない。ご承知?のように、オレはこのシリーズを書きながら、別の独立した記事(一部、小シリーズ的)を書いた。それについては「記事一覧 続編」(7月13日)にリストアップしている。朝ドラを話題にした記事が多い。

RESTROOM

さて、両親の「アメリカ西海岸伝道旅行」は1か月を要した。その間Hさん一家が親身になって付き添ってくれたはずだ。仕事をしながら、その合間に初めてのアメリカ訪問で右も左も分からないおやじたちをしっかり側に付き添ってくれたと、おやじが帰国してから話してくれた。
 
熱血漢のおやじの話を、どちらかというと冷静に感情をあまり入れない次兄が通訳したと聞いたことがあるが、さもありなん、とオレはうなずきながら、帰国直後のおやじの興奮した話を聞いた思い出がある。
 
興奮して話してくれた中には、思わず笑ってしまう話もたくさんあったが、多くは忘れてしまった。
 
「あのなぁ、お父さんが教会の礼拝の前にお祈りをしようと思ってな、教会の役員さんに《レストルーム:rest room》はどこですか、と聞いたんだよ。その役員さんはその場所に案内してくれたんだがな。扉を開けてびっくりだよ。トイレだったんだよ。それで、上を見るとそこにはrestroomと表示されていたんで驚いたよ」

(UCLAのトイレの表示)

今ならほぼ誰でも知っていることだが、1960年代の話だから仕方がないかもしれない。
(ついでだが、Restroomはイギリス英語では確かに休憩室をさすことが多いのだ)

駆逐艦

オレはこの話が気になっていて、実際に試してみるチャンスを探っていた。
そして大学1年生の時に思わぬチャンスが訪れた。
 
ESSの先輩が1年生に宿題を課してきたのだ。
「今度、近くの祭りに合わせて、港に米軍の駆逐艦が停泊して見物できるから、行ってこい。そしてそこで軍人と友達になってオレたちの町を案内するように」
 
オレは駆逐艦が停泊する話は前もって聞いていたので、それには是非行きたいと思っていた。
オレは英語に燃えていたのだ。
今でも本屋にあると思うが、『SPOKEN AMERICAN ENGLISH』(アメリカ口語教本)がESSの1年生向けのテキストだ。そこにある文章を暗記したり、会話を覚えたりした。中には今でも一部すらすらと言える部分があるほどだ。
 
T君ら5人でその日に駆逐艦に無事乗り込むことができた。

オレは友達に「ちょっとトイレに行ってくる」と言って、彼らと離れた。そしてふらふらと艦内をうろついて、出会った軍人にあれを確かめるつもりだった。
 
「すみませんが、Restroomに行きたいのですが・・・」
 
彼はついて来いとばかりに案内してくれた。
 
「ここだぜ」
 
オレはその大きな扉を開けてみた。
それはオレが見たこともない景色だった。

広~い空間が目に入ってきた。

一瞬オレはたじろいでしまった。数えたりはしなかったがどこまでも続くと思われる便器が壁一つない空間で並んでいたのである。それが何列も続いていたのだ。

(UCLA内のトイレ :ここではちゃんと区別されている)

オレは、今ならきっと写真に撮ったに違いない。というのは、案内してくれた軍人は既にいなくなっていたからだ。しかも、その何十とある便器を利用している人は一人もいなかったのだ。きっと仕事中ということだったのだろう。いたらいたで、オレはやはりたじろいだに違いない。
 
オレは急いで、友だちのところに戻った。
その話を早くしたかったからだ。彼らは自分たちも見てみたいと言ったが、その日の相手をする軍人を捕まえていたのであきらめたようだった。

おごってもらう寿司は格別

船から降りてからが宿題の本番だ。とにかく生の英語を使うのが宿題の一番大切な部分なのだ。
 
オレたちはちゃっかりした計画を立てていた。
よく分からないが、詳しい友達がいて、位の高い海軍の軍人を見つけていたのだ。そして、いつの間にか仲良くなっていたのだ。
彼らも誰かに街を案内してもらいたい気持ちがあるのは明らかだった。
 
軍人とは思えない柔らかいしゃべり方が気に入った。
タクシーにぎゅうぎゅう詰めで乗り込んだ。アメリカ兵は大柄だ。オレは何故かタクシーの助手席だ。
 
「人数超過だから、警察に見つからないように、できるだけ腰を低くして乗ってくれよ」
 
今のタクシーのドライバーならどうしても一人下ろすか、もう1台に分乗するように言っただろう。
 
オレたちの地元までお願いして乗せてもらえた。
降りてからは、あちこち地元の観光地をうろつきまわった。
疲れたところで、軍人に聞くことにしていたのだ。
 
「どこかで食事でもしませんか」
 
こういうことになると、張り切って発言する友人がいたのだ。
 
「近くに寿司屋がありますよ」
 
「じゃあ、そこに案内してくれる?」
 
アメリカ兵は食べる気満々だった。
 
オレたちはもちろん、みんなおごってもらうつもりなのだ。
タクシー代だって、彼が快く支払ってくれていた。
 
オレの家はたくさんの宣教師が来ることがあった。狭いのに、家族が泊ったこともしばしばだった。
オレの英語好きは、宣教師の子供たちと近くの公園で遊んだりして、彼らが話す言葉が全く違うことに強い衝撃を受けたことから始まったようなものだった。
 
オレはその時に、アメリカではホームレスですら英語を話すことを知った。今思えば、いや、思わなくても、そんなことは自明の理だ。
 
その英語(正確には米語)を話すアメリカ人の子供たちが、オレと同じ日本語を話すのを聞いたとき、その衝撃は更に大きかった。オレも大きくなったら、彼らと同じように英語を話せる人間になりたかったのだ。
 
というわけで、この祭りの日には、日常の何十倍以上の英語を生で聞くことができ、その生英語に自分のブロークンイングリッシュをたくさん披露できた。
 
しかし、オレはそろそろおやじの話に戻らなければいけない。記事のタイトルが遠くに行ってしまったから、それを戻さなければならない。

ティッシュペーパー

両親が帰国してから、我が家の食事風景が大きく変化した。
 
例えば、食事中にみそ汁を少しこぼしただけで、おやじの声が響き渡る。
 
「布きんで拭くんじゃない。ティッシュペーパーで拭きなさい。アメリカではそんな時にはみんなティッシュペーパーを使うんだよ」
 
その頃、日本にはティッシュペーパーという言葉すらなかったと思う。
そこでティッシュペーパーに見立てて、食事の前に「チリ紙」(落とし紙)をみんなでたたんで”事件”に備える。小さくたたまれたチリ紙が食卓の真ん中にその存在を全身でアピールするのだ。

実は、おやじはアメリカからティッシュペーパーを少なからず持ち帰っていた。それのおかげでティッシュペーパーがどんなものか視覚的に知ることができた。しかし、そんなものはあっという間に無くなっていた。
  
「あのね、本当に皆さん、ティッシュペーパーをすぐに使っていたのよ。ふふっ。で、お母さんもね、これは素敵だなって思ってね、思い切って使ってみたの。気持ちよかったのよね、ふふっ」
 
母が言うと、変に説得力がある。

それで、オレたち子供はおやじの言うことを聞くことになる。「ティッシュペーパーを使いなさい」、と言われる前に手をティッシュペーパー、いや、畳んだチリ紙に伸ばすのだ。
 
すると、おやじが嬉しそうに畳んだチリ紙を取ってくれるから面白い。
 
もう一つ強烈だったのは、食事の時に出す「音」だ。

それまでも、オレの家族は食事の時にズルズルと音を出したりはしていなかった。
それなのに、たまに音が出てしまうと、おやじの注意が食卓上を席巻する。
食事の時間が、時には苦になってしまうことになる。それまで和気あいあいだった場所が、緊張の場に変わるのだ。

ツルツルツル

オレの自費出版の本のタイトルに「そば」という項目がある。そこを全て書くわけにはいかないが、食事の「音」を話題にしているので、一部ここに紹介してみる。

(自費出版本のⅣ章イラスト)

ツルツルツルツル
「私は音を出してそばを食べていた。体育学部の修士を得るためにISUに留学しているN氏のアパートに招かれていた。
(中 略)
「N氏はバイクを乗り回していた。中古で手に入れたのだ。電話をしてからそのバイクで迎えに来てくれた。
『昨日ブルーミントンで日本の食料品を仕入れて来たんですよ。そばも買ってきたんですよ』
「私は2つ返事でOKした。(中略)彼のアパートに行くと、もう一人の体育学部の留学生がいて、天ぷらを作っている最中だった。
(中  略)
「久しぶりのてんぷらはおいしかった。醤油の香りも懐かしかった。一味唐辛子の舌を刺すような刺激がうれしかった。炊き立てのご飯の味が、何とも言えない感動を与えてくれた。それにはセロリーも入っていなかったし、生煮えの硬さもない。まぎれもない純日本式ご飯だった。
「そして締めくくりがそばである。私は嬉しくて黙々と食べていた。
「『やっぱり日本食が最高!アメリカ人はよくも年がら年中、ハンバーガーを食べて飽きないもんだ』
2人はわめきながら食べている。私もそうだそうだと相槌を打つ。
「『先生、ツルツルっとやりましょうよ、ツルツルっと。ここには日本人しかいないんですから。思いっきり音を出してくださいよ』
「私はいつの間にか「音」を出さないで食べる癖がついていたのである。全く気が付いていなかった。そこで私たちは、誰はばかることもなくツルツルツルっと思いっきりそばを食べた。その時のそばはかつてないおいしさだった

(表紙画像は、「アフリカンサファリ」訪問時に購入した冊子の表紙画像をビーズアートとして自分で作成したものです)

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