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『ああ許すまじ原爆を』&『野ばら』

文字数:2358字
 
 私は終戦1年前にこの世に誕生した。
 
 戦争について書いたことはほとんどない。あるとすれば、つい先日(と言っても、確か6月ごろ)記事を書いたときに、子供時代に過ごした地域の国鉄の駅前で物乞いをしていた傷痍軍人の件をほんの少し書いた覚えがある。
 
 今回は今にして思い出してみると、あれは戦争のことだったんだなどとふと思ったことをしたためてみたい。
 
 それというのも、明日(8月6日)は広島に原爆を落とされて多くの尊い命が取り上げられてしまった忌まわしい日だからだ。
 
 私が小学生の時代には毎月一度午前中を使って学校近くの映画館へ「映画教室」に出かけたことをかなりよく覚えている。
 
 (映画教室は高校になるまで続いた。授業がない喜びは、見終えた後の感想文を書く午後に苦しみを配達してくれた)
 
 初めて映画を見たのは、父に連れられて近くの映画館に出かけた時だ。2階席の一番後ろの方に家族で陣取った記憶がはっきり残っている。その時見たのが「少年ケニヤ」だったのか「ターザン」だったのか、もう一つタイトルを思い出せないのだが、アフリカの奥地に宝を捜し歩くという内容の映画だった気がする。
 もしかしたら、「ジャングルブック」だったかもしれない。これらはいずれも父に連れられて見に行ったのだが、どれが人生最初に鑑賞したものかが分からないだけである。
 
 さて、小学校からの映画教室でみた戦争映画は「ひろしま」(実は私の中では「ああ許すまじ原爆を」だったのだが、歌だったのかもしれないと記憶のあいまいさに立ち止まらされている)と「野ばら」だったと記憶している。

 これまた「野ばら」は私の記憶違いの可能性が大きい。主人公は戦争から帰国して心がやんでしまった元日本兵だ。彼が庭の木に登って大きな声で「野ばら」を歌うシーンが胸を打ったのだ。だからその映画のタイトルを「野ばら」だと思った節がぬぐい切れないでいる。
 
 どれもこれも小学校下学年の私の心をいまだに時々占領してしまう。特に8月は戦争にまつわる記憶を呼び覚ますニュースが新聞をにぎわすからだ。
 
 「ひろしま」(ということにしておくのだが)の画面では、多くの老若男女がふらふらと歩き回っている。その着ているものは破れ焦げ身体にしがみつくようになっている。その人たちはほぼ幽霊のごとく前の人についていくようにしてさまよっているのだ。
 
 その周りの景色はもちろん焼け野原だ。
 
 小学生の私にはとても見て居られないおぞましい景色なのだ。何が起こっていたのかはもちろん知らない。いや、知ってはいるのだ。何故ならば、その場面の前に立ち上る「きのこ雲」を既に見てしまっているからだ。
 そのきのこ雲が何者なのかは全く知らない。
 
 人々は焼けただれた体を弱弱しく運んでいる。目指しているのはどこかの川なのだ。乾く喉。焼け焦げた皮膚の熱さを水で冷やすのだ。そしてその多くがそのまま川の中に引きずり込まれる。死の姿で浮かび上がってきたりする。それは痛ましすぎる景色だったのである。子供の目にはどう映っていたのか、なかなか思い出せない。
 
 大学で教えるようになった時、学会の会場がひろしまだったことがある。よくわからないまま学会に紹介されたホテルに泊まった。その窓からは見えなかったが、夕方の散歩のときに、すぐ目の前に「原爆ドーム」があった。爆風で飛ばされた周囲を想像してみた。想像できるわけもなかった。
 
 私はお金がなかったので、修学旅行に行ったことがない。
 
 「お前は教師になれば修学旅行にたくさん行けるよ」
 
 父が私を慰めるつもりなのか、そう言ってくれた。私自身はどうしても行きたい、などと思った記憶は全くない。皆が修学旅行の間、登校すると2年生で登校しているのは、修学旅行に行けなかった仲間ばかりだ。
 
 中学の時には、行けない2年生を先生が引率してくれて、国鉄の汽車に乗って地元から離れた有名な観光地に行った。

 車窓から外の田舎の景色を見ていると、汽車に手を振ってくれる家族らしき人々がいた。私たちも一生懸命手を振った。
 
 「こんなに楽しいなら、修学旅行に行けばよかった」
 
 いつもは乱暴者の一人がボソッと言った言葉が今でも焼き付いている。
 
 中学生の時に、東北地方に住んでいる父の親せきがやってきた。
 父の弟だ。
 彼は戦争で精神が傷んでしまっていた。父は兄弟が多く、その弟はあちこちたらいまわしになっていたのだと思う。そして父が面倒を見る順番がきたのだ。
 
 私はこの叔父さんが好きだった。気を使わずに話すことができた。何を話してくれたかは覚えていない。よく二人で近くを散歩したことを覚えている。
 
 どれくらい私の家族と同居したのか思い出せない。かなり長い間一緒だった気がする。叔父さんと一緒に歩いていると、なぜか心がウキウキした気持ちになった。それほど、叔父さんは素直な気持ちで接してくれたのだと思う。
 
 いよいよ本家に帰るというときには、一緒に国鉄の駅まで見送りに行った。父は本家まで送り届けたと思う。おじさんがいなくなるととても寂しい気持ちになっていた。
 
 それから数年後に、父の弟がなくなったことを父から告げられた。
 「かわいそうなんだよ」
 父がボソッと私に言った。父の悲しみが伝わる言葉だった。
 彼にまつわる最後の言葉も心に刺さってしまった。
 
 戦争がなければ、叔父さんはもっともっと幸せな生活が送れたはずなのだ。
 私の父は学生時代に柔道の対外試合で片足が傷んで、少し引きずるようにして歩いていた。私たち子供はその足音を「ツーカタン、ツーカタン」と言って笑った。父も笑った。それはその傷のおかげで戦争に行かなくて助かった父の心の中の笑いなのかもしれないと思ったものだ。
 
 ( この記事を書き終えた「今」は、2023年の「ひろしまの日」、8月6日になっている。 )
 


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