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トラちゃんの母“はる”が亡くなった

( 今回の表紙画像は、私が10数年前に作ったビーズアート小物入 )

先週(6月16日~22日)の「寅と翼」の中で、
 
はるがいなくなった
 
母親が亡くなるという事件は、出来ればパスしたい。
 
私の母は72歳の時に突然亡くなってしまった。救急車に運ばれた先で、心臓マッサージを受けたがどうにもならなかった。目の前の母を助けることなどできなかった。
私が36歳の時だ。
朝ドラの「トラちゃん」がいくつの時にはるが亡くなったのかよくわからないが、恐らく私に近い年齢だったと想像している。
 
私は、母が亡くなった時、実家(教会の住居部分)に泊ることにした。心身ともにへとへとになって帰る気にならなかったからだ。発熱していたから余計にそういう気分だったのである。
それに比べれば、トラちゃんは元気だ。若干情緒が不安定な場面があったりしたが、私は不安定のままである。
 
私が留学したのが1981年だったから、まだ母の死を十分には昇華できていない時期だったかもしれない。
留学中、何度か母が生きていれば私の留学を喜んでくれただろうに・・・などと勉強に疲れてふと思ったりしたものだ。
だからと言って、私は不幸にして母の夢を見たことがない。それが少々残念な気持ちがしている。
 
今から10年と少し前に、私は妻を亡くした。ガンとの闘病生活は3年半だった。私は彼女が体調がすぐれないということで、12月24日に病院に連れて行った。妻は病院にあまり行きたがらない人だった。だからほぼ強制的に連れて行った。
内科医は診察するなり、がん専門の病院に紹介状をしたためて言った。
 
「今日中にこの病院に行って検査してもらってくださいね」
 
午前に行ったので、帰宅して昼食をとるとすぐにその紹介された病院を訪れた。
 
「手術で病巣を切除しなければいけません。本当はすぐに手術したいところですが、スケジュールが詰まっているんです」
 
そう言って、約1か月後の日程を提示された。
 
手術を終えてからの闘病生活が3年半(正確には3年9か月)だったのである。
 
あらゆる薬などを使っての治療が続いたが、3年半ほど経ったときに、医師から「緩和ケア病棟」への入院を勧められた。
 
「ただ、まだ病棟は空き部屋がないので、しばらく自宅療養をしてください。入院が可能になれば、こちらからお知らせいたします」
 
妻はその病棟に入るまで、1か月を我が家で過ごした。
私はつきっきりだ。
両脚が信じられないくらいに腫れあがり、私はマッサージをする日々だ。
夜中に寝苦しかったのだろう、ベッドからリビングのソファーで寝ていたりした。私も自分の寝室からリビングにそーっと移動して、何かあれば対応できるように気を付けた。
呼び鈴のようなものを置いて、私を呼んだりしたが、私がすぐそばで返事をしてびっくりさせたこともいい思い出だったのかもしれない。
毎日、前の日にできていたことができなくなる姿を見る1か月ほどの待機の日々だった。
 
「こんなにしながら、人は死んでいくんだね」
 
妻が言った言葉は静かだったが、強烈だった。私に返事ができるわけがない。私は沈黙でそれに答えた。
 
私は家族で小さな旅行を思い出にしたくて、4月頃、車いすから座れるように助手席を移動式のものにした新車を購入した。
脚が太く腫れて、乗るのも大変になってしまった。小旅行もとうとう果たすことができなかった。
 
そうこうするうちに、病院から電話がかかってきた。「緩和ケア病棟に空きができました」
 
それはつまりどこかの家族に涙がたくさん流れていることを指していることに気づかないわけがない。
 
いよいよ緩和ケア病棟に入院する前の日、私たちはリビングでハグしあって別れの会話を交わした。
 
短い時間だったが、深い時間だった。
 
短い時間であったが、心が一つになる時間だった。
 
短い時間だったが、長い時間だった。

「余命は約30日です」
 
入院するときに、医師が私だけに言った言葉だ。
 
「ありがとうございます。私たちは昨日別れの時間を持ちましたので、大丈夫です」
 
入院中は、近くの百貨店で本人指定の弁当を買って一緒に食べたり、注文のお菓子を購入したりした。
 
そうこうするうちに、余命の最後の日が訪れた。そのことを気にしていたわけではない。
 
今思えば、その日は最後の日であることを認識することになったのである。
 
午前は歩いて見舞いに行った。帰りはJRだ。
午後早くには自転車で往復した。かなり長くいたので、夜は行かないつもりで帰宅した。
 
しかし、夕方になって急に見舞いに行く気になった。
その時は車で行った。
 
妻はおとなしくしていた。
何故かその中に異変を感じた。
思わず(見たくない)計器類を目にする。
その動きが静かに一本の線に近づく。
 
私はあわてて看護師さんを呼ぶボタンを押した。
自分で押したのは、人生で初めてのことだった。
すぐにやってきた看護師さんがあわただしく出て行く。
しばらくして戻ってきたが、昼間と同じように静かに対応してくれた。
 
「奥様は、ありがとう、って言ったんですよ」
 
私はそれが彼女の最後の日本語だと悟った。
 
私にあまり「ありがとう」といわなかった妻が、
誰に言った言葉なのだろうと
心の底で今でも時々反芻する。
 
妻が私に「ありがとう」の気持ちを持っていることは
我が家のリビングで最後にハグした時に
お互いの気持ちを分かち合ったときに
私の心の中に焼き付いていた。
 
その数日前に
妻は私に
自分の日記帳を処分して、と弱弱しい言葉で頼んできた。
私は1頁も見ることなく、処分した。
彼女の「ありがとう」の気持ちが
何故か深く心に刻まれた。
 
そして緩和ケア病棟で
二度目の別れを告げることになった。
一度目と同じくらい深い別れであった。
 
そして名実ともに最後の別れは
教会での葬儀の時だ。
 
最初に手渡された「花」を前の台に置いた。
初めて涙があふれるように出てきた。
席に戻ってからも
肩をゆすって泣いた。
いくらでも涙が噴き出るようだった。
 
父親が
母を病院でその死を確認して
私の車で教会に戻った時のことだ。

父は、母が最期に寝ていた布団の側で
大きな声で泣いていた。
私は聞こえないふりをして
部屋の外で時間を過ごした。
 
「よしっ」
 
しばらくして、父は力強くそう言って部屋を出てきた。

それ以降、父は涙を見せることはなかった。
葬儀の司式中も
いつもの礼拝の説教ででもあるかのように
力強い言葉を発して教会を慰めた。
その言葉に一番慰められたのは
司式をしていた本人にほかならないと
私は強く確信した。



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