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海外体験 期待と不安と喜びと    その3

 まえがき 

 この記事では、修学旅行としてNew Yorkに連れて行った時の生徒との楽しい時間を書く予定にしているのだが、考えているうちに余計なことを書いてみようと思ってしまった。イギリスでの研修旅行は、大学で教えるようになってから企画実行したのだが、その下地に高校生の修学旅行に企画として作成したことがあった。本当は高校生を連れて行きたかったのだ。
 私は大学生時代に、死ぬまでに絶対に行きたいと決めた場所がいくつかあった。それはこのシリーズの「その1」で述べたミシガン大学がその筆頭だった。そして次がイギリスのHastingsだ。あとはついでに企画しただけだ。つまり、Stratford-upon-Avonや湖水地方だ。詳細は「黄色いラッパ水仙」の中に書いてある。この記事は学生の引率の報告書として、小説的に描いたものだ。上司に提出するために書いてみたのだ。学校にある報告書の書類に書いても面白みがないからだ。
 というわけで、高校生を連れて行かなかったのにイギリスの企画の話から始めることになったのだ。

1. 修学旅行としてのイギリス


 1994年3月、特別クラスの修学旅行としてアメリカ東海岸方面に生徒を引率して行った。プログラムの殆どは私が企画して、ホームステイ専門の旅行社にお願いした。
 企画当初は、私自身はイギリスに連れて行きたかった。私の個人的思い入れがあったからだ。
 大学の卒論で、イギリスに関するものを書いていたからだ。その時に知った「1066」という数字が私を身震いさせたことを思い出したのだ。今年はイギリス国王即位の稀有ともいえる儀式が世界中を圧倒した。
 これの大元をさかのぼれば、1066年に行きつくのだ。
 私が一生に一度はその1066年の場所に行くことに決めたのは、卒論を書き終えた大学3年生の時だ。(私はさっさと卒論を書き終えていたのだ)
 そういうわけで、イギリスの修学旅行に引率をしたくてたまらなかったのだ。当然その企画案にはロンドンの各所はもちろんのこと、Hastings(ヘイスティングス)がでんと収まっていた。そこは知る人ぞ知るイギリス王室のスタート地点だからだ。
 1066年にWilliam the Conqueror(征服王ウィリアム1世)がフランスのノルマンディーから目指した場所こそ、このHastingsだったのだ。
 私は 2001年に大学生を引率して行ってきた。しかし旅費や日程のきつさで当初計画していたHastingsには連れて行かなかった。代わりに、私は休みの日に一人で出かけてきた。
 日曜日で鉄道の点検日に当たっていたので、2階建てのボロなバスで出かけてきた。Hastingsが近づくにつれて、停車するバス停の名前が印象に残った。「War」というバス停の名前を目にした時には、心臓が特別な鼓動を伝えてきた。一気に1066年に戻ったからだ。バスがHastingsに着いた時には「1066」という数字が遠近に踊っていた。そういえばロッチェスターRochesterでもこの数字は踊りまくっていた。イギリス中に見かける最も多い数字ではなかろうか。そしてその数字「1066」は間違いなくイギリス人の心を揺さぶっているのだ。私でさえ揺さぶられたからだ。
 夢中になってしまった。(今これを書いている、まさにこの時間のことを言っている)
 
 私は高校生の修学旅行案の第1番にこのイギリス訪問を提案した。この段階では英語科教師会での提出だ。2番目の企画案はアメリカ東海岸方面だ。西海岸方面は中学3年生の希望者対象のプログラムで、1980年代前半ですでに私が企画して毎年実行していたのだ。
 英語教師会で私のイギリス方面の企画案は見事撃沈してしまった。それは高校生には歴史が深すぎて難しいということになったのだ。確かにアメリカはせいぜい200年ちょっとという歴史の浅さがある。私はイギリスに拘泥するつもりはなかったのでアメリカ東海岸地方の企画案を受け入れた。それはそれで魅力があると自信があったからだ。

2. 修学旅行としてのアメリカ

 私が企画したアメリカ東海岸の旅の旅程はおおよそ次のようなものだった。
 まずは大自然体験としての「ナイアガラ」。つぎに異文化交流体験として2泊3日のOwego(オーウェゴ)でのホームステイ体験。ここでは高等学校を訪問して文化交流。世界1ともいえる大都会体験のNew York。歴史体験としてPhiladelphia(フィラデルフィア)だ。最後を飾るのがアメリカの首都ワシントンDCだ。ここでは1日自由行動とした。絶対に行かなければいけない場所として、国立公文書館と出来て間もなかったホロコースト記念博物館とした。国連ビルでもフィラデルフィアの歴史的場所でも全てガイドや説明は英語ガイドを選択したので、生徒たちは真剣に耳を傾けていた。高校訪問でも授業に出席したのだ。2,3人ずつに分かれたのでドキドキだったかもしれない。私は生徒3人と社会科の授業を参観したのだが、その担当教師が私を指名して日本の政治に関する説明をさせられた。ドキドキものだ。アメリカの生徒は気楽な姿勢で耳を傾ける。そして突然挙手をして質問をするのだ。担当教師もいろいろ質問をしてくる。楽しい時間ではあった。
 この修学旅行は生徒にとってかけがえのないものになったに違いない。
 
 ナイアガラの滝は、私にとっては4度目の訪問だ。初めてのこともある。アメリカ滝が凍っていたのだ。一度でいいから凍ったナイアガラをこの目で見たいと思っていたので大満足だ。やはり写真より実物の方が断然いいに決まっている。

 私はナイアガラに行くたびに滝をいろいろな角度から眺めてきた。最初はもちろん滝つぼ付近まで行く船からの見物だ。これはこのシリーズの「その1」で既述した通りだ。もう一つは妻と覗いた滝つぼの裏側からの落ちてくる滝の姿だ。3度目がカナダ滝を横にあるデッキから眺めるものだ。そして4度目が生徒を連れての見学だ。それが下の画像だ。誰がこんなことを考えたのか気が知れない。

 そして5度目のナイアガラ訪問は、2015年のトロントからの日帰り旅だ。今まで行ったことのないアメリカ滝をたっぷり眺めることができた。初めてアメリカ側から滝の流れに至るまでの河の激しく動き回る水流は、思っていたよりもはるかに迫力があった。

3. New York5番街を生徒と・・・

    ちょっとその前に・・・

  (今日は2,023年9月30日、昨夜は中秋の名月、なのに昼間は太陽の力が強く焼け付くようだ。現在私は数名の知人で入院や一人住まいのお年寄りー私自身も年寄りなのだがーにいろいろな文章を勝手に手紙として送っている。このnoteの原稿からも変更を加えながらプリントアウトして送っている。最初に送る前に本人たちの許可を得て、押し付けにならないようにしている。そんな折、次の原稿を何にしようかと考えていた時、たまたまこの「海外体験 期待と不安と喜びと その3」を開いてみた。
 驚いた。長い間ほったらかしていたことに気づいたのだ。大失態だ。これは「つぶやき」にツイートしておかなきゃ。。。
 そう思って、今書いているこの反省文?を「つぶやき」にコピーしてみた。当然140字ははるかにオーバーし、結局そのためだけの「記事」として公開することに相成り候。。。
 でも、この記事にも書いておこう、ということでここにしるしてみました。
 まことにすみませんでした。
 恐らく、ほかにも途中で忘れている記事があるかもしれないと不安になっています。何しろ最初に一年間は書きまくりましたから・・・。)

 同じ文だが、この記事を「削除」することにした。今皆さんが読んでいる記事は、新たに公開した記事だ。内容は変わらない。私の心の中の何かが変わったに過ぎない。鮮度が落ちたものを生き返らせたかったと言えば聞こえがいい。

    というわけで・・・

 New Yorkでは、このルーズベルトホテルに2泊か3泊かした。
 その日の朝はチャーターしたバスでバッテリーパークに行く予定だった。それは自由の女神観光のためだ。この公園から船で自由の女神がある島まで行くのだ。
 
 私は荷物を持ってロビーに行って生徒たちを待っていた。なかなか出てこない。仕方なく、その場にいた数人を誘って5番街散策を思いついた。5,6人がウキウキしてついてきた。
 せっかくの5番街で露天の果物を買って食べながら歩く経験をさせてあげようと思ったのだ。妻を連れて行ったときに、それをとても新鮮な驚きを込めて喜んでくれたからだ。
 案の定、生徒たちはリンゴをかじりながら5番街を歩いた。きょろきょろしながら歩いた。こんなに楽しそうに歩いている生徒たちを見て、連れてきてよかったと思えた。

 そこまではよかった。

 ハッとすると、ホテルの位置が分からなくなっていることに気づいた。私は方向音痴なのだ。アメリカではそれは大した問題ではない、と思っていた。しかし、生徒を連れているとなるとことは重大だ。
 生徒たちにばれないように、何事もないかのようにして歩き回った。私の心の中の不安が外に出ないように必死だった。
 どれくらい歩き回ったか覚えていない。
 気が付くと、見たことのある景色が目に入ってきた。ルーズベルトホテルがある通りに戻ったのだ。
 私たちが帰ると、バスに乗り込んだ。自由の女神目指してバスが出発した。
 10年以上経ってから私が大学に籍を移して、同じ旅行社にイギリスでのホームステイプログラムを依頼したことがある。その時打ち合わせに来た男性が、このルーズベルトホテルでの私と数名の生徒失踪事件(笑)の話をしてきた。
 「先生、あの時はロビーで相当待たされましたよ。みんなで、どうしたのかと不安になったんですよ」
 私はその失踪事件のことには触れられたくなかったのだ。しかし、彼は昨日のことのようによく覚えていた。せっかく時間が経って忘れてしまっていたのに・・・思い出させられて、あの時の冷や汗がまた出るような思いがした。

 孫娘を連れてNew Yorkに行ったのは2017年だ。
 2人に自由行動の時間を与えたことがある。朝はどこかに一緒に行動して、昼からは好きにしていいよ、と放し飼いをしたのだ。
 2人は喜んで出かけた。
 私は考えるところがあったのだ。生徒たちを修学旅行で連れてきたルーズベルトホテルに行ってみたくなったのだ。
 ホテルの入り口で係の人に事情を話して、ロビー付近を写真に撮らせてもらおうと考えたのだ。
 あの時の生徒たちとはラインで結ばれている。
 それでNew Yorkに孫と行く、と話すと、あのホテルの写真を撮ってきてほしい、と言われたのだ。

 帰国してから、ラインで送ったら、えらく喜んでくれた。私はホテルの中を歩き回って撮れるだけの写真と動画を撮って帰ったのだ。
 その日、孫娘たちはなかなかホテルに戻ってこなかった。
 私の心配は尋常ではなかった。地下鉄に乗り間違えたか何かで迷子になってはいないだろうか・・・などなどだ。いやいや、スマホを使えるから何とかするはずだ・・・などなどだ。
 外が暗くなったころ、ようやく帰ってきた。タイムズスクウェアの椅子に座って行きかう人々を眺めていたそうだ。きっとどこに行ったらいいかわからなかったのだ。その前日にタイムズスクウェアを歩き回ったのが楽しかったのだ。ごった返しの人の波にもまれたのが、New York体験そのものに感じたのだ。


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