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心のすきまを埋めるもの

文字数: 2632字

心のすきまを埋めるもの

 私の好きな書物の一つに『怒りの葡萄』がある。スタインベックの書いた傑作だ。大作であるが、私には大作であればあるほどマイナーな部分に目が行く習癖がある。
 私がアメリカに留学していた時に写した写真を見た生徒に、「先生はマイナーな所に目が行ってますね」と言われたことを思い出す。そう言われてみれば、信号機や、消火栓、はたまたかわいい郵便車など、枚挙にいとまがないほどだ。従って写真には私自身が登場する必要がない。何百枚とあるアルバムに私の姿を探すのが困難なほどだ。自分の姿は自分の脳裏にしっかりと焼き付けてあるのだから、写真に登場する必要はない。
 そんな私であるからなのだろう。話の筋とは特に関係なさそうに思える場所に目が行く。大作の中の小さな話題が、私の心に山椒のような効果を演じる。
 例えば、スタインベックの書いた大作『怒りの葡萄』の中の一こまを見てみることにする。
 とあるハンバーガーショップ。接待係のメエ。一緒に働くアル。そこに荷物を山と積んだおんぼろトラックが一台やって来る。
   (注)これからの『   』は本文からの抜き出し
『「ねえさん、なんとかパンを一山売ってもらうわけにはいかねぇだかね」
 メエが言った。「ここは食料品店じゃないんだよ。パンはサンドイッチを作るためにおいてあるんだからね」
 「そりゃそうでしょうがな、ねえさん」彼の腰の低さは格別だった。「俺たちはパンがどうしても必要なんですだ。それに、この先しばらくは店らしい店もねぇということだし」
 「パンを売ってしまうと、うちで使うパンが無くなってしまうよ」メエの口調は、ためらいがちだった。
 「おれたちは腹をすかしていますだ」と男が言った。
 「じゃ、どうしてサンドイッチを買わないのさ。おいしいサンドイッチがあるよ。ハンバーグのね」
 「そりゃ、そうしてえのはやまやまですがな、ねぇさん。だけんど、おらたちは、それができねえですよ。10セントで、みんなの分を間に合わせなくちゃならねぇのでね」それから彼は、きまり悪そうに言った。「なにしろ、ほんのすこししか貯えがねえだで」
 (中略)
 彼女の背後からアルがどなった。「メエ、パンを売ってやんなよ」
 (中略)
 「それじゃ、ここのものを盗んだことになるだよ、ねえさん」
 「いいんだよ・・・アルが持ってゆけって言ってるんだから」
 (中略)
 彼は人さし指で、財布のなかを探り、10セント玉を一つ探り当てると、指を突っ込んでそれをつまみ上げた。カウンターの上に置いてみると、1セント玉が一枚くっついていた。彼がその1セントを財布に戻そうとしかけた時、彼の目はキャンデーのカウンターの前で凍り付いたようになっている少年たちにとまった。彼は、ゆっくりと少年たちの方へ歩いて行った。ケースの中の大きな、長い、縞模様のついたハッカ入りの飴を指さした。「ねえさん、あれは1セント・キャンデーだかね?」
 (中略)
 「あーーあれ? あれは違うわーーあれは2つで1セントよ」
 「それじゃ2つもらうだよ、ねえさん」
 (中略)
 ビッグ・ビルが、くるりとふり向いた。「あれは2本1セントの飴じゃなかったぜ」と彼は言った。
 「それがどうしたのさ」とメエが強い口調で言った。
 「あれは一本5セントの飴だ」とビルが言った。
 「ぼつぼつ出かけなくちゃなるめえ」と、もう一人の男が言った。
 「あばよ」とビルが言った。
 メエが声をかけた。「ねえ、ちょいとお待ちよ。おつりをもってお行きよ」
 「へっ、くそくらえだ」とビルが言った。スクリーン・ドアがばたんとしまった。
 (中略)
 「アルーー」と彼女は低い声で言った。
 アルはハンバーグをべたべた薄くたたいて蝋紙の間に積み重ねていた手を休めて顔を上げた。「何だい?」
 「ちょいとごらんよ」彼女はコップのそばの銀貨を指さした。――50セント玉が二枚おいてあった。アルは、そばにきてそれを見て、それからまた自分の仕事に戻った』 (新潮文庫:大久保康雄訳)

 乱暴な言葉遣い。荒くれ男の風貌がにじみ出ている。店員嬢の身なりも想像できそうな気がする。そして店にやってきた男。みすぼらしい風体。いかにも金を持っていない気な様子。薄汚れたズボン。擦り切れたシャツ。ぼさぼさな髪。ほこりまみれの帽子。手の筋に沿って黒光りのする手。その手でようやく手にしたパンを大事そうにおしいただく。その様子を満足そうに見送るアル。憐みの視線を投げかけるメエ。
 雰囲気から想像するに、私ならこの店に入る勇気はない。荒くれ男たちがギョロリとした目をむけただけでしり込みしてしまいそうだ。荒い言葉遣いは悪気のないものであっても私を店から飛び出させてしまいそうだ。
 上記の引用部分には、すさんだ雰囲気とは不似合いな温かさが満ち溢れている。こんな連中に何の慈悲を与える必要があろうか、と言いたげな応対をするメエにも言える。その言葉一つひとつに棘がある。それなのに、この小説は読者にほっと一息を入れたくなるような安堵感をこの箇所で与えてくれている。
 目立たない存在のアルが100%の善人に見えてくるほどだ。釣りはいらないと言って、飴代に相当するお金をおいて行った2人の人物までもがそう見えてくる。その何気ない善意。荒くれ男たちの善意はその意味を更に強烈に読者にアピールする。

話変って聖書の話。
 群衆の打ち振るシュロの葉をかいくぐって進むイエス。ゲッセマネの園で脂汗を流しながら祈るイエス。ゴルゴタの丘に向かうイエス。そのイエスをありとあらゆる言葉を駆使して打ちのめす群衆。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」
 そのイエスに鞭を打ち落とす兵士。騒然としたゴルゴタの丘。逃げ去る弟子たち。
 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」
 私たちが、苦しむときに押し出す叫びと同じだ。イエスはこの言葉の後に息を引き取る。絶望。闇。「希望が失望に終わる」かに見える。
 しかし、聖書は偉大だ。希望が0%になったかに見える時にこそ本領発揮だ。イエスの死は、失望が100%の希望に変わる出発点となる。
 『怒りの葡萄』の場面が与えてくれる安堵感は一過性のものだ。それでも読み進む者に、人間の大切なものを教えてくれる力がある。聖書の安堵感は永遠のものだ。その力はどんな試練にも立ち向かう勇気を与えてくれる。立ち向かえなくても、試練を耐え忍ぶ力を与えてくれるものなのだ。


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