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ホロコースト(ダニエル少年の話)

文字数: 2885字

 この記事は「黄色いラッパ水仙」の「11.高校生のアメリカ旅行」の中でもかなり扱っています。

 1994年3月後半に、私の勤めていた高等学校の生徒を引率してアメリカ東海岸を訪問してきた。カナダ側のナイアガラに始まり、2泊3日のホームステイ、ニューヨーク、フィラデルフィア、そしてワシントンDCと10日間の研修旅行だ。私にとって4度目の東海岸地方の訪問だ。
 多くの目的を内包した研修日程であった。生徒たちは異口同音に2泊3日のホームステイが特筆ものだと感動を口にした。ホストファミリーに大事にされ、いつも心にかけられ続ける経験が、彼らに感動をもたらすのだと思われる。愛情が彼ら全体を包み込むという、いわば、天国の体験なのかも知れない。
 どこに行っても、生徒たちに感動をもたらすという自信をもって企画したのであるが、このホームステイが与える感動に勝るものはなかったようだ。うれしい誤算だと思った。ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンDCとアメリカの大都会の3態を經驗すれば、その感動も吹き飛んでしまうに違いないとたかをくくっていた。
 しかし、それは大きな間違いであった。メトロポリタン美術館に行っても、自由の女神と対面しても、国連本部のツアーに参加しても、フィラデルフィアの素晴らしい街並みに感動しても、ペンシルベニア大学のキャンパスを歩いて学生の中に紛れ込んで興奮しても、白で統一された女性的な美しさを持つ首都に直に接しても、そこでの彼らの感動はすべてホームステイの感動に帰っていくのである。ホームステイの感動が全てを覆いつくしてしまうのである。
 にもかかわらず、私の感動は別のところから現れた。
 凍り付いたナイアガラのアメリカ滝の素晴らしさは、1970年にナイアガラを初めてみた時の感動に近かった。自由の女神では疲れてコーヒーをゆっくり飲んでいたらいつの間にか集合時間が迫っていて、初めての時の感動のかけらももたらさなかった。フィラデルフィアだけが、自分にとって初めての訪問地だ。ペンシルベニア大学のブックストアで(私はアメリカの大学を訪問すると必ずそうすることに決めているのだが)大学ブランドのネクタイを探し、Tシャツを買い、タイピンを自分の土産として買うのに夢中になった。
 研修旅行の最後の1日は生徒自身で計画して歩きまわる自由研修だ。心配もしたのだが、生徒たちは事前に行こうと決めていた場所をそれぞれのグループで見学して回る。
 自由研修の中で、私は生徒たちに必ず行かなければならない場所として、ナショナルアーカイヴ(国立文書博物館)と1993年6月にできたばかりのホロコースト・ミュージアムの2か所を入れさせた。
 私個人としても、必ず行きたい目標の場所でもあった。文書博物館ではめったにお目にかかれない私文書が展示してあったりするからである。以前訪れた時にはリンカーン大統領夫人が当時の大統領にあてた年金に関する私信や、キューバのカストロのアメリカ大統領への私信など、興味深いものに出くわして、後にそれらをメモしなかったことを悔いたものだ。
 ホロコースト博物館は文字通り人間の歩んできた最も醜い、悲惨な歴史の一つを目の当たりにする場所として是非見ておきたかったのである。しかし、残念ながら予約しておかなければならないことを知らなかったために、全貌を見学するには至らなかった。
 それでも何かをつかんで帰らなければと、予約しなくても入れる場所をむさぼるようにして見て回った。その一つに、「ダニエルの物語」というコーナーに出くわした。
 それは一人の少年の物語だ。彼は最終的には戦争終了と同時にホロコーストから逃れることが出来た。彼の父親もその一人だ。しかし、彼の愛する母親も、妹も、友達も、多くの親戚もホロコーストの餌食になってしまっている。
(注:ホロコーストとは、ナチスのユダヤ人に対する大虐殺。『アンネの日記』も有名である)
 彼が記録したものは、写真だ。日記だ。彼が手にしたカメラには、悲惨な結末が待っている人たちのにこやかな映像が残されている。得意げなゲシュタポたちの姿が映し出されている。つらい思い出となるダニエルの故郷の姿が何気なく人々の前に立ちはだかる。
 祖母が作ってくれたヒトラー少年隊のユニフォームがダニエルにチャンスを与えてくれたのだ。祖母は言う。
 「私はお前が奴らの言いなりになるのを黙って見てられないんだよ。強く生きてほしいんだよ。飼いならされてなんかほしくないの。これを着て町に出なさい。ユダヤ人が行ってはいけない場所に出かけなさい。この服はお前に自由を与えてくれるものだよ。カメラを持っていって、記録しなさい。歴史の記録を」
 それなのにダニエルは祖母が死んでからは殆んど写真を撮っていない。13才の誕生日から2週間もたたないうちに、祖母は自殺する。例の制服はダニエルに自由を与えてくれたように思っていたが、彼はユダヤ人を表す “J”のスタンプが押されている身分証明書を携行し、自分は「ユダヤ人のダニエル」であることに固執するのだ。危険な中にあっての自我の目覚めだ。
 彼が写真を撮ることをやめたのにはわけがある。記録に残るにはあまりにも残酷なシーン仮だったのだ。ゲットーに入れられてみると、そこには飢えた人々が山のように飢えと闘っていた。いとこのGeorgが息を引き取る。彼の母親もその後やせ細って2度と帰らぬ人となっていく。
 そんな時にダニエルは父から日記帳をもらう。この日記帳こそが、ダニエルが撮り続けてきた写真の解説書となる。1枚1枚の写真の解説を10代になったばかりのダニエルの目で綴られていく。ダニエルの思想が吐露される。いや、殺されるためにだけ生き続けなければならないユダヤ人一人一人の無念の叫びとなって綴られていく。
 ダニエルもダニエルの父親も、希望だけが命の源だと知る。わずかに命を支える一かけらのパン以上に大切な命の源だと知っている。希望は密かに隠し持っているラジオから流れ出る連合軍側のニュースだ。その希望を生み出すラジオはひょっとすると彼らの命を奪う凶器になるかもしれないのだ。
 彼は日記帳に記録しながら、この記録が戦火の中に生き続けることに期待する。そんな期待が彼の希望だったのかもしれない。しかも、その日記帳と共にダニエルも父親もあの過酷な死の日々から助け出されたのだ。
 彼の日記帳を読むと、13才前後の1人の少年が、ある意味で大人の目よりも現実を直視しているのが分かる。淡々と描かれている短い文章の中に、文豪でも言い表すことのできない現実の深い厳しさが表現されている。
 ナチスの制服の下に隠されている人間の醜い姿が12,3才の少年によって剝き出しにされている。彼らの醜さは、実は神をないがしろにしてきた私自身の姿なのではないかと身が震える思いがした。
 神の前に出た時に、彼らは何と申し開きをするのだろうか。いや、神を信じない時の自分は何と申し開きをしたらよいのだろうか。しかし、幸いなことに、私は今神を信じる生活に入れられている。神への申し開きをしなくてもよい、と神は仰せ下さっている。
 


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