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勝たなきゃ本当にゴミなのか?


「勝たなきゃゴミだ!」


これ、どこかで聞いたことあるセリフです。
人間社会には、成功者がいればそうでないものもいる。
よって、そこにはカーストが存在する。


カーストの低い人たちは、生きる資格のない「ゴミ」であると、
そういうのです。


心が「ざわ・・・ざわ・・・」としちゃいますよね。

本当に、人々のいのちは平等ではないのでしょうか?
(そんなわけないですごめんなさい)


人間以外を見てみると・・・?


この「価値ある人間、価値のない人間」という考え方をよく理解するため、
人間以外でもこの考えが適用されることがあるのか見てみましょう。


例えば、家畜です。
わたしたちの口にしているウシやブタは、効率よく育てたり、おいしくするために選抜されていきますよね。僕も、うまいうまい言いながら食べてます。いつもありがとう。


考えてみると、彼らには、コスパの良し悪しを考慮した「優劣」が確かについているようです。(人間が勝手につけているのですが)

なら、野生動物はどうでしょう。野生下でも、同じ種の中で生存能力が高く、生息地の環境に適応できるいわば「優秀な個体」が生き残りますよね。
(自分がもし野生の猿だったらと考えると、生き残れる気がしない)

つまり、身の回りの生き物たちは、何かと選択されながら繁殖を繰り返しているのです。


じゃあ、人間は・・・・・?


結論から言うと、人間のいのちは、みな平等です。

「あたりまえじゃないか」

といわれると返す言葉がないですが、これには、ほかの動物と人間のあいだに横たわる大きな「差」が関係しています。


その差とは、「頭の良さ」です。
高度な知能のおかげで、人は「文化」「技術」を発展させてきました。
文化によって、わたしたちの生活は彩られ、豊かなこころが育てられます。
技術によって、自然選択とはより遠い生活が実現します。


その結果、わたしたちは生きることに、ワンランク上の意義を見出したのです。それは、「お互いの違いを楽しむことです。」

野生動物ならば、こうはいかないでしょう。
どんなにキラリと光る個性を持っていても、異質な存在は悪とみなされ、集団から疎外されてしまいます。


ところが人間は、それぞれの違いを受け入れ、次々とあらたな価値観を生み出していくことができます。


これまでに、人間はさまざまな差別による迫害というあやまちを犯してきました。なぜでしょう。それは、自分の持っている短い定規(単位も自分で考えたもの)で、勝手に長さをはかってしまうという傲慢さゆえです。


「みんなちがってみんないい」
この考え方は、本当に大切なことです。


誰もが選抜され、イケメンで、運動神経がよく、頭脳明晰な社会が良いですか?同じような人ばかりになると、種族としての伸びしろがなくなってしまいます。

相互に認めあい、のびのびと誰もが生きられる社会こそ、発展の可能性を秘めた素晴らしい集団といえるのではないでしょうか。

アセット 2

考え方を変えたい


ときには、自分の至らなさを、生まれ持ったもの、つまり
「遺伝子」のせいにしたくなることもあります。

ただ、考え方を変えてみましょう。
もし自分が人間ではなかったら、生き残れない遺伝子をもっていただけで一発アウト。それに比べて、人間社会のなんと寛容なことでしょう。


自分の個性をいかようにも発揮して、幸せを掴みにいくことができますよね。わたしにも「生きてる意味ってあるの?」みたいな病み期は確かにあります笑。

そんなときは、ふと、
「選択的に淘汰されず、平等に生きられる人間社会のありがたさ」
を思い返したいと考えます。(実際はそんな余裕ないことが多いかもしれませんが。)

大切にしたいことは、
「人間の繁栄は、多様性なくして成功しなかったはずだ。
ならば、個々人は尊重しあって、お互いの違いを楽しみながら生きていこう。」という考え方を、誰もが持つことだと思います。
結論、勝たなくてもゴミじゃない。
自身をもって生きていきたいですね。

さいごまで読んでいただきありがとうございました。

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