420余年前から強行された日本の犯罪的蛮行

1592年4月、大兵力で編制された日本侵略軍は明国への道を開通せよという荒唐無稽な口実を設けて朝鮮の釜山を攻撃した。それが発端となって朝鮮と日本との間の戦争(壬辰祖国戦争)が起きた。

壬辰祖国戦争は、当時日本の領土強奪野望と海外侵略政策によって計画的に挑発された極悪な侵略戦争、歴史に類を見ない国家的な大量殺りく戦争、略奪戦争であった。

当時、日本政権の首魁である豊臣秀吉は部下らを侵略戦争に駆り立てながら、「朝鮮人をみな殺せ!」という殺人的なスローガンを掲げた。

日本の殺人鬼らは朝鮮の至る所で殺りく行為を事とした。1593年、朝鮮軍の猛攻撃によって一城に追い詰められた日本侵略軍の一部隊はその腹いせに城内の住民に対する大量的な殺りく行為を働いた。

これについて、史料には「生き残った民は百人のうち一人や二人もならなかったが、生存者さえも飢え疲労困憊してその顔形が鬼のようであった。人間と馬があちらこちらに死んで倒れ、城内に悪臭が漂って人々は鼻をつまみながら通り過ぎた。城の内外には屍が累々と横たわり、官庁や家もがらんとし残ったものは灰燼と瓦の欠片だけであった」と記されている。

豊臣秀吉は7カ条の布告というもので、外国人の頭で塚をつくるつもりだとしながら、老若男女を問わず首を切って頭を日本に送ることを命令した。その後には「人間の耳は二つであっても鼻は一つであるから、朝鮮人の鼻を切って頭に代えろ。軍士一人当たり鼻を一升ずつにその数量を満たしてこそ、生け捕るのを許す」という残忍な命令を下した。

壬辰祖国戦争を一名拉致戦争、陶磁器戦争、活字戦争とも呼ぶ。それは戦争期間に侵略者が数多くの技術者を拉致し、文化財を略奪して行ったからである。

壬辰祖国戦争後、日本の各地方で朝鮮の染織技術が長く伝わっているが、それは朝鮮で拉致した染織技術者によって広まったことだという。

日本の侵略者は景福宮(朝鮮封建王朝時代の王宮)と宗廟を焼き払い、朝鮮封建王朝第9代王の成宗と第11代王の中宗の墓を掘って副葬品を略奪し棺を焼き払い、国宝クラスの美術作品や朝鮮鐘をも盗んでいった。

ポルトガル人が書いた「日本史」によれば、当時日本侵略軍の首魁らは言うまでもなく、船乗り、運搬工、賎民らも朝鮮で文化財を強奪し金儲けに狂奔した。

そこで日本人学者までも、秀吉の侵略戦争は朝鮮の文化をことごとく日本に運んでいった文化略奪戦争でもあったと自認した。

壬辰祖国戦争の時期に日本の侵略者が働いた犯罪行為は、日本特有の属性である血を好む残忍性と他人のものを盗み略奪するのに慣れた強盗さながらの産物であった。

壬辰祖国戦争で負けた日本はその後も、朝鮮に対する侵略と略奪行為を絶えず強行した。20世紀前半期にも朝鮮を軍事的に占領して野蛮な民族抹殺政策を実施し、おびただしい朝鮮人を侵略戦争の弾除け、労働奴隷と性奴隷として連行し苦痛と死を強い、数々の文化的財宝や天然資源を強奪して行った。

今日、日本は過去に犯したすべての犯罪行為を反省するどころか、自分らの侵略史を美化し罪悪の歴史を繰り返そうとしている。しかし、日本の破廉恥で厚顔無恥の行為は全朝鮮民族の対日敵愾心を煽り立てている。

2021-04-30

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