「変わりたい」という人が本当に求めているもの
この夏、家の中にある大きめの観葉植物の葉っぱをほぼ全部切り落とした。
わさわさ伸びていた植物から葉がなくなると、それはもう坊主と言わざるを得ないようなただの木の枝。
実は枝振りを変えるため人生で初めての剪定をしたのだ。
切った直後は
マジでこれ大丈夫なんかいな。
というくらいのただの枝。各枝一枚だけ葉っぱがついてる。
しかも枝もめっちゃ色んなとこ切ってる。
マジでこれ大丈夫なんかいな!?
しかし生命の力によって今現在うちの観葉植物、モッサモサ。
坊主にしてから約1月半。
ほんまかいな。
しかもこの剪定、行うことで幹が太くなったり枝が増えたりする。
ほんまかいな!
ジャンジャン出てくる新しい枝と葉っぱをみていて思う。
この生命の力は一体どこからきてんやろか。
生命がエネルギーであるとすれば、生きているものすべてにそれは備わっているはず。
私はこのひと月半、木の枝から新しい枝が伸びてくる様を毎日のように見ていた。
ただの棒から枝が出て、葉が現れ、増えていく。
何か実がなって私の空腹を満たしてくれたりするわけでもない。
傷跡の治療に使えたりするわけでもない。
具体的になんかの役に立つのか、と聞かれると目に優しいことくらいでマジなんの役にも立たない。
でもただ見ちゃう。
子供がうるさい日も(夏休みお疲れよ親御さんたち)
夫がややこしい日も(1時間に一回どうでもええこと言いにくる)
体がだるい日も(中年やからな)
毎日毎日見ちゃう。
変化のあるものを見るのは楽しい。
物事が変わっていく様を見るのは喜びなのだ。
生命のエネルギーを私たちは見ることができる。
「変化」として。
例えそれが衰えに感じる変化であっても、変わるということは今生きているということだ。
どんなに外から見て変わらないように見えても、私たちの細胞は変化し続けている。
多くの人は皆いつでも「自分を変えたい」と願っている。
それは生命のエネルギーを自分自身に感じられないからでは、と私は疑っている。
今の自分、という点をどんどん観察してストックすると、長い長い線になってこれまでの変化がダイナミックで現実的なものとして実感できる。
でもそもそも現在の自分、という点をコツコツ打たないと線を見出すことはできない。
キョロキョロと他人や周囲ばかり見ていると、自分の点がどこにあるかすらわからないからだ。
どこにあるかわからないものを手繰って線にするのはマジではちゃめちゃに難易度が高い。
自分は変化してきたと認識できれば、足元が見えない程強く「変わりたい」とは思わない気がするのだ。
だって変化は日常を積み重ねた上に当たり前に存在するものだから。
今現在どこに枝があって、どんな風に葉っぱがあるのか。
どう切ったら大体どんな感じで枝が出そうなのか。
葉っぱを切ってしまう前に、今の状態を知る。点を打っておく。
その後適当に切ってどう枝が出るのかを楽しむのもいいし、大体こんな形にしたい、と決めて剪定するのもいい。
枝が出てくる過程をいちいち点として観察する。
自分を逐次観察し細かく点を打てば、いち早く変化に気づくことができる。
どんなに些細な変化でも、そこに生命のエネルギーは存在する。
その点を線にして、自分自身のエネルギーを確かめるのだ。
これほどエキサイティングなことはない。
お読みいただきありがとうございました。
異論はマジで認めます。
というより明日自分が同じこと言ってるかどうかもわかりません!
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