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見返りを求めないという幸せについて


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幸せというと、いろいろあるけれど、最近になって思う幸せのひとつは、

「何かを手に入れることよりも、何かを与えることができること」

である。

とはいえ、僕はこれまでずっと、何かを手に入れることが幸せだと思ってきたし、さらに図々しくも何かを与えてほしいと思っていた方だった。

それが、これもつい最近になって、ようやくできるようになってきたことなのだけれど、自分の時間だったり、あるいはちょっとではあるけれど、お金を人のために使うことができるようになったし、そのことに幸せを感じるようにもなってきた。

これまではなんというか、例えば誰かに自分の時間だったり、お金を使った場合、心のどこかで見返りみたいなものを求めていたんじゃないかと思う。

それこそ、仕事というのは自分の時間を提供して、時給でいくらとか月給でいくらみたいな感じで、自分の提供した時間をお金としてもらうというか、与えたのだからもらうみたいな、今思うと、なんともどうしようもないような考え方で生きていた。

まあ、そもそも自分がお金を受け取れるだけの働きをしていたのかが疑問ではあるのだけれど、そういうギブアンドテイク(僕の場合はテイクアンドテイクかもしれないが)じゃないけれど、世界とはそういうものだと思っていた。

そして時間もそうだけれど、お金も基本的には自分のためだけに使っていた、というか何かを人に与えるということを、今までほとんどしてこなかったように思う。

なので、これまでを振り返ってみても、欲しい欲しいばかりで、誰かに何も与えたことがない。

もちろん、自分の幸せを考えるということは大事だし、まずは自分のコップのようなものを満たしてあげることで初めて、誰かに心から何かをしてみたいという気持ちになると思うから、まず自分を幸せにしてあげる、ということは大前提だという気持ちでいる。

けれど、それはただ自分のことだけを考えるとはちょっと違うというのか、うまく言語化できないのだけれど、自分の幸せを考えるのと、自分のことだけを考えるというのは微妙に違うし、そこが大事なような気もする。

そもそも自分の幸せを考えてみた時に、自分のコップはどのくらいの大きさなのか、そしてどうやったら、そのコップを満たすことができるのかというのは自分にしかわからない。

なので、まずは自分のコップの大きさを知り、どうゆうことでその自分のコップを満たすことができるのかを知る。

そうすると、具体的に行動にすることができるし、そうやって自分のコップを満たす、自分を幸せにすることができると、気持ちの余裕もできるし、極端な話、何かを与えたとしても何かを返してほしいみたいな見返りを求める気持ちにもならなくなってくる。

それが足るを知るというのか、自分がそもそも満たされていると、何かを得ようとか、何か欲しいとかほとんど思わなくなるし、そういう気持ちの余裕があるからこそ、自分以外の誰かに何かを与えてみようという気持ちにもなれるのだと思う。

そうやって、欲しい欲しいばかりのテイカーだった自分も、

「何かを手に入れることよりも、何かを与えることができること」

に幸せを感じることができるようになって、素直に嬉しい。

そして見返りなんてなくても、自分が与えることができた何かで、相手が幸せを感じてくれる、それこそが幸せそのものなんじゃないかと思う。

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