特に何もいらないという幸せ、あるいは物事にとらわれない自由について
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先日バイトに行ってきたのだけれど、その日はとてもとても暑かった。
農作業のバイトなので、たいてい外での作業になるのだけれど、朝の8時くらいからすでにかなり暑くて、作業を始めてすぐに汗だくになった。
特に日陰もないところなので、1日ほぼずっと太陽の下での作業になったから、水分と休憩をちょこちょことりながら作業をした。
1日ずっと暑いところで作業していると、暑さもあるし、疲れもあってか何も考えられないというのか、ほとんど無に近いような気持ちになってくる。
基本的に繰り返しの作業だから、体が覚えていて自然と動くという感じで、作業する→疲れたら休み、水分をとる→また作業するということを1日やるわけである。
まあ、暑いし、喉はいつだって渇いているし、そういう時に考えるのは冷たいビール、とかではなくて「家に帰ってただただ、ゆっくり過ごしたい」ということである。
僕にとっての最高の贅沢というのは、家でゆっくり過ごすことであって、最高の幸せなのである。
その日なんとか仕事もできて、家に帰ってシャワーを浴びて、エアコンのついた部屋でゆっくりイスに座って、お茶を飲んで一息ついたら、心の底から幸せを感じたし、これ以上は何もいらないし十分に幸せだと感じた。
そして生きるということは、このくらいシンプルで幸せでいいんだよなあとも思った。
そのあと、夜ご飯に食べたトマトもおいしかったし、水分がほとんど出てカラカラな時に食べるトマトの強烈なおいしさに、またなんともいえない幸せを感じた。
仕事の帰り道でもぼんやり考えていたのだけれど、今の自分は過去の自分がとてもびっくりするくらいに、無欲とまではいかないにせよ、欲がほとんどないし、特に何もいらないというか、欲しいものがない。
そして、特に何もいらないことそのものに、幸せを感じている。
ほんのちょっと前までは、それなりにあれが欲しい、あれがあると楽しいだろうな、幸せだろうなみたいに思うことがあったのだけれど、今はそういう気持ちにもあまり、いやほとんどならない。
あとなんというか、何かが欲しいという欲もそうだけれど、物事に対する執着もだいぶ小さくなったことで、「何かを所有したい」とか「手放したくない」みたいな気持ちにもならなくなったように感じる。
だから自分のモノをほとんど手放すことをためらわなくなったし、実際に手放してみても、自分の幸福度は特に下がったりもしなかった。
そうすると、今度は形のないものにも、とらわれたくないと感じるようになった。
なので、これまでスマホのバックアップをお金を払ってやっていたのだけれど、バックアップそのものもやめてしまったし、データそのものもほとんど消した。
ラジオとか動画とかのデータもずっと保存していて、スマホのデータはいつもいっぱいだったのだけれど、今はアップロードしたら、その都度データは消すようにしている。
なので、今はスマホのメモリは半分も使っていない。
前はこのデータがないと困るみたいな気持ちで、保存できるデータは、できるだけ保存するようにしていたし、バックアップにもお金をちょっとは使っていた。
けれどモノをほとんど手放した今、「自分の感情を何かにとらわれたくない」と思うようになった。
それは形のあるもの、形のないものも関係なくである。
大事なスマホ、大事なデータなど、大事なものがたくさんあればあるほど、自分の感情が振り回されるように感じるし、そしてそれは、自分がそういうものに執着しているからなのだと思う。
欲が小さく、特に何もいらないという気持ち、あるいは執着が小さく、何か物事にとらわれることがないという気持ちでいられる、今はそういうことに、幸せと自由をとても感じる。
人生はとてもとてもシンプルで、それでも幸せを感じられるし、自由なものである。
それに気づけたことも幸せであるし、もっと身軽に自由に過ごしていきたいと思う。
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