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生きている、存在しているだけでいいのかもしれないことについて

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生きていると「自分は何のために生きているんだろう?」とか「生きている意味って何だろう?」とかふと気になって考えてみたり、時には考えすぎて、悩んだり不安になることもある。

自分もそうやって何のために生きるか?とか生きる意味は?とか考えてみたり、自分の人生を振り返って、他人と比べては「自分は何にも成し遂げていない」「何かしらの成果みたいなものを出していない」「何者にもなれていない」みたいに思っては、落ち込んだりすることもあった。

けれど今は「生きている、存在している、それでいいじゃないか」と、まあ開き直りとも言えるのかもしれないけれど、そのくらいに思えるようになったし、そうしたら心がだいぶ軽く自由になったように感じた。

自分は同世代のまわりの人たちと比べたら、まあ、まともに働いていないし、お金も持っていないし、立派な持ち物もないし、器用でもないし、肩書きもないし、何かこういうことを成し遂げたみたいなことも全くない。

簡単にいうと、ただただ毎日を淡々と生きている、生活しているだけの人間とも言えるし、いわゆる「ただのひと」であり個性も才能もセンスも全く何もないと思う。

それこそ、ぱあっと咲いていて「うわあ、きれいだなあ」と目立つ花とかではなくて、そのきれいな花とかのまわりに生えている雑草に僕は近いと思う。

これまではみんなから「きれいだなあ」「素敵だなあ」と言われる、そのきれいな花をうらやましいなあと思っていたのだけれど、今は「いやいや、きれいな花は咲かないけれど、こうやって青々として生きているんだからそれで十分に幸せなことだよなあ」と素直に思えるようになったし、きれいな花がすぐ近くにあっても、うらやましいという気持ちではなくて「きれいだなあ、素敵だなあ」とシンプルに喜べるようになった。

何でそうなったのか?というと、自分でもはっきりとはわからない。

まあ、たいてい自分のことはわかっているようで、よくわかっていないのだけれど、こういう今の自分になれたことそのものがラッキーだと思うとともにとてもありがたいことだなあと嬉しく感じる。

今の自分は、ものすごく個人的に言うのであれば、お金をたくさん欲しいとも思わないし、モノもたくさん欲しいとも思わない。

いわゆる世間で「すごい」とか「素敵」とか「うらやましい」と言われるような、かつては憧れていたようなモノ、あるいはコトに、不思議と興味がなくなってきた。

何というのだろう、人がそういう何かモノを持っていたり、何かで成功しているとか有名だとしても、自分には関係のないことというのか、人は人であり、自分は自分であるという線引きみたいなものがいつの間にかできるようになってきたのかもしれない。

だから、今は日々をただただ淡々と生活しているだけなのかもしれないし、誰かのお手伝いとかには行くことはあるけれど、特にこれといって活動的だというわけでもない。

けれど、そういうただただ生きている、存在している、それでも十分に幸せを感じることができると気づいたし、それでもいいんだ、それが自分でもいいんだと受け入れることができるようになってきた。

それこそ、僕が求めていた「心穏やかに生きること」はこういうことなのかもしれないなあと、今をただただ生きていること、存在していることの幸せを感じている今日この頃である。

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