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不便という楽しみについて

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ちょっと前に、友だちが住んでいる古民家に遊びに行かせてもらって一泊させていただいたのだけれど、その時の経験はカルチャーショックというのか、僕自身のこれからの生き方にかなりの影響を与えたものになった。

友だちの住んでいるところは、なかなかの山奥にあるから(僕も山の方なのだろうけれど)、なんというかちょっと買い物へというよりは、「ようし!、買い物に行ってくるか〜」という感じで、出かけるにも「よいしょっ!」という気持ちになるんじゃないかという気がした。

まあ友だちに直接に聞いたわけではないから、もしかしたらそんなに億劫には思っていないのかもしれないけれど、もし僕がここに住んでいたとしたら、出かけるのがめんどくさいし、そもそも住む場所の居心地が良すぎるから、買い物とか外に出るのは極力ひかえて、家とか家のまわりでのんびり過ごしているんじゃないかと思う。

あと電気は通っているけれど、水は山の水をひいていて、確認はしなかったけれど、多分ガスは備え付けてはいなかったような感じだった。

僕が滞在させてもらった時には、ガスで何か調理するところを1回も見ていない。

何かするにも家にある囲炉裏でお湯を沸かしたり、ご飯をつくるか、あるいは家の外で七輪を使って、ご飯を炊いていたので、普段からガスは使っていないんじゃないかと思ったし、それで困っている様子も全くなかった。

むしろ燃料は家のまわりが山なので、いつでもどこでもすぐ手に入るし、なんだろう、ここではむしろお金を払ってガスを使う方が、無駄とは言わないけれど、困らないから全く問題ないじゃないかとひとりで納得していた。

いただいたお風呂はボイラーで温めているようだったから、そのための燃料は購入しているのかもしれないけれど、なんというか普段の僕の暮らし、電気もガスも水道も使えるとても便利な暮らしからすると、多少は不便なのだろうけれど、逆に楽しさは僕の暮らしよりも多いんじゃないかと強く感じた。

電気は使えるけれど、それでも必要最低限で使っているというのか、暗くなってきたらつける照明とかに使うくらいで、無駄がないというのか使えるけれど必要なところだけに必要な分を使っていて、照明も普段の蛍光灯みたいなビカビカまぶしいやつではなくて、暖色系というのか電球のほのかな明かりだった。

だから夜は薄暗いというのか、普段の自分の生活からするとかなり暗いのだろうけれど、それが全く気にならず、むしろ落ち着いたし、囲炉裏の火の明るさもあってなんともちょうどいい、心地よい時間を過ごしていることに気づいた。

そうそう、ご飯をつくるのも、スイッチオンでできるわけではなくて、まずは火を起こすところから始まって僕もちょっとお手伝いさせていただいたのだけれど、まあ火を起こして安定させるまでにも、なかなか時間がかかった。

それでも、その時間そのものが楽しくて、そういう経験もほとんどないから、ご飯をつくるまでの過程がまるっとエンタメというのか遊びに感じられた。

もちろん、そうやってつくられたご飯はとてもおいしかったし、みんなでちゃぶ台で円になって、ワイワイ食べる時間も最高に楽しかった。

なので家に帰ってきたら、なんというか、もちろん電気もガスも水道も普通に使えることそのものが、普通じゃなくてありがたいことなんだなと感じたと同時に、なんだろう普段の生活に関するあれこれの楽しみも少ないというのか、不便だからこその楽しみもあるんだなということがわかった。

友だちの家で過ごした時間は、普段の自分の暮らしからすると不便なところもあるけれど、それ以上に楽しみとかワクワクが特別なこととしてというよりは、日常として存在すると強く感じたし、僕もできる範囲で、そういう不便を楽しむ暮らしというものをつくっていきたい。

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