きょうだい、ぬいぐるみを取り合う。

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ホッブズの社会契約説について。

社会契約説は重要な概念であり、その後の憲法の学習を進める上で土台となる考え方である。振りかえると、特に政治分野は、社会契約説の理論が下敷きになっていることが多く、学習を進めれば進めるほどに味わい深いものである。

社会契約説の勘所は、国家がなぜ必要か、あるいは、なぜ国家の定めたルールに人々が従う必要があるのかである。そのバリエーションとして、高校の政治経済では一般に、ホッブズ、ロック、ルソーという3つの思想家が登場する。その中でも、社会契約説の勘所を見定めるのに重要な役割を果たすのが最初に出てくるホッブズである。あとは、その変化パターンとして捉えるのがよい。よって、ホッブズの社会契約説の発想をしっかりおさえられるかが鍵となるように思える。

そこで、理解の助けとなる例を考えてみた。個人的に真を食ったと思う譬えは、子どもの喧嘩である。

上図をみると、きょうだいがクマのぬいぐるみを取り合っている。2人にとっては、クマのぬいぐるみで遊ぶことがぬいぐるみを取る目的である(これが「自然権」に相当)。しかし、このままでは、ぬいぐるみはちぎれて、所期の目的を達成できなくなる。では、どうするか。お母さん(これが「国家」に相当)が出てくるわけである。とにかく、大声で叱りつける。やめなさい、と。きょうだいは手を止める。順番に遊びなさい、とお母さん。お兄ちゃんが1時間遊んだら、妹が次の1時間遊ぶ、このルールを守らないとぬいぐるみは取り上げですと宣言され、きょうだいは仕方なく従うことに。でも、これによって、ぬいぐるみで遊ぶという所期の目的を(少なくともぬいぐるみを取り合ってそれがちぎれてしまうよりかは)達成できるわけである。自分たちでルールを決めたわけではないけれど、お母さんという強大な権力が決めたルールに従うと、ぬいぐるみで遊ぶことができる。こうしたシチュエーションでは、お母さんが必要であるし、また、お母さんの定めたルールにきょうだいが従う必要があるというわけだ。

もちろん、これだと不満が残る。きょうだいはお母さんという第三者が勝手に決めたことに納得いかないかもしれない。であれば、2人のきょうだいでルールを決めた方がよいということになるだろう。こうした発展パターンがロックやルソーの議論となる。が、ここで重要なのは、きょうだいが決めていなくても、お母さん的なポジションの人(国家)は必要であるとするホッブズの社会契約説の理解である。国家の本質はホッブズの理論から発見する方がわかりやすく、ミスリードを防ぐことができる。

なお、このようにみてくると、上述の譬え話は「囚人のジレンマ」の例として捉えることもできる。ホッブズの議論が、実は「囚人のジレンマ」の一例であることに気づくと、視野はいっそう広がっていく。

つながることが、社会系の科目の醍醐味である。

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