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小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり ほぼ毎日更新10日目

こんばんは。理学療法士のたかです。

「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」

今日は自分自身を振り返るなんとも考え深い言葉に出会ったので紹介します。

本来の意味は、「自己満足のために行う善行(小善)が、それが善意から発したものであったとしても、結果的に人をひどく傷つける大悪を生みだす事がある。また、それに対して、本気で相手の事を考えて行う善行(大善)は、時として厳しく、情け容赦のない態度(非情)と誤解されることがあるが、努力すれば次元の異なる良い結果を生むというもの」です。

例えば、子供のしつけ。

可愛そうだからとおねだりされて物をすぐに買い与える(小善)は、子供の将来にとってはかならずしも良いもではありません。

逆におねだりされても、しっかり我慢させることで子供の将来の成長を望む(大善)ことがいっけん非情にみえても、子供のためになります。

また、ある女性が貧困の街を訪れたとき、痩せこけた子供をみた。彼女は持っていたチョコをあげようとしたとき、その母親がすごい形相でかけよってきてそのチョコを叩き落した。彼女は何が起きたのかわかりませんでした。

なぜ、母親はチョコを叩き落したのか。

現地の人曰く、「もし、その子供がおいしいチョコの味を覚えたら、もう二度と食べられないチョコをほしがるだろう。この貧しい街においしい食べ物がないと悲観して、不幸になるでしょう」

痩せこけた子供をみてなにも与えないのは、一見非情にみえるが、その限りでものを与えること(小善)はもっと罪深いものだと考えられます。

自分自身を振り返ると、短期的な「平和」や「喜び」を優先させることで、結果的に相手の成長を妨げたり、チームとしてミスリードをしていることがあると感じました。

つまり「迎合した」ということです。

これは一見、相手のためにその対応をしたと納得できそうですが、長期的にっみると、そうではない。迎合して相手のためになったためしはありません。

非情でも厳しくても、逃げずに信念に基づいた態度をとることことを再認識させてもらえました。


本日もご覧いただきありがとうございました。私の気づきがあなたの一助になれば幸いです。

では、またお会いしましょう。



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