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今日もカフェの灯りはついている

勉強するときでも、調べ物するときでも、読書するときでも、ガソリンスタンドに併設された近所のカフェに行っている。
昔から家じゃ全く作業に集中できない性分だから、いつしか家で粘ろうとするのは諦めて「とりあえずカフェに行こう!」ということを繰り返している。

そのカフェはなぜか談笑しに来ている人はほんんどいなくて、学生やらサラリーマンやらOLやらが、大抵何かの勉強をしている。
資格の勉強だったり、試験の勉強だったり、仕事の勉強だったりと。
(聞き耳を立てているわけじゃないけど勝手に色々聞こえてくる…。)

いつも誰かが勉強していて、行けば自然とこっちも作業に身が入るから気に入っている場所だ。

もちろん毎日行くわけじゃないけど、カフェはシフトを入れ替えながら毎日営業していて、一日だらだらしてしまった日の夕方とかに行くと「みんなが勉強している間に自分は何をしていたんだろう…」という若干の自己嫌悪に陥ったりする。

ジャケットでラップトップを叩く女性のキーボード音に、昨日も背中を叩かれたばかりだ。

自分がいない日の学校とか会社とか、翌日に「ほんとに存在して時間が動いていたんだな…」と感じることがあるみたいに、その場所に再び訪れるまで自分がいない間の時間を現実として認識できないよなーと思う。

でも、遠い昔に卒業した小学校も、大学時代のアルバイト先も、昔好きだったあの子の日常も、自分の中で時間が止まっているだけでちゃんと地続きの日常を繰り返していて、今でも生活模様があり、人間活動があり、物語があり、と思うとなんだかとても感慨深い気持ちになる。

例えば新しい街に引っ越したら、職場の世界があって、近所のパン屋やスーパーの世界があって、生活圏の部分だけが今日まで伏せられていた"モノクロ"から、物語として明るみに出るみたいな。

そういう物語は世界中どこにでもあるけど、一生かけても「限りなく無限」はモノクロのままで、今日は誰かのクライマックスかもしれないし、その隣人のプロローグかもしれないし、その友人のミッドポイントかもしれないけど、それを知り得るはずもない。

自分が人生の中で関われる物語は、ほんとうに、ほんとうに、ほんの一部だということが、儚くもあり、今日の身の上を美しくさせる。

昔「人類未到の地の草木も、ほんとうに人知れず風に揺られているのか?」「観測するまでポリゴンデータなんじゃないのか」ということをずっと考えていたけど、多分人類に見つけられなくてもちゃんと草と木のオブジェクトがあって風のエフェクトが付いているんだろう。

今日もカフェの灯りがついているのがその証拠だ。

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