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「好きなことで、生きていく」 そうあらねばならない世界は地獄かもしれない。

散髪

「たいちさんも髪切ってくるといいよ」

僕はシェアハウスに住んでいる。住人全員がポーカープレイヤーという、なんとも変わったシェアハウスだ。
先日、フィリピンから帰ってくると、同居人達の髪型が洒落たものになっていることに気がついた。一方、僕はと言えば、前回の散髪から2ヶ月ほど経っている。起床時の寝癖は特にひどくそろそろ切り時ではある。

「皆さんはどこで切ったんです?」

そう聞くと同居人の一人が小さな紙を一枚差し出した。どうやら全員同じ床屋にお世話になったらしく、その店の店長の名刺だった。記載されている住所を見るとうちのすぐ側だ。あぁ、あそこか、と合点がいく。

「ここ、よかったですよ。おすすめです。」
別の同居人もこの店を推す。

そう言えば、ここ10年くらい同じ床屋にしか行っていない。カットしてもらうのも同じ人。もはや実家のような安心感さえある。

しかし、今回は薦められた床屋に行ってみることにした。何のことはない唯の気まぐれだ。ただ、自分が少し変わるかもしれないという、大げさだけどちょっとしたワクワク感があった。

初めての床屋

駅に向かって歩いて3分。その床屋についた。駅に行くたびに通り過ぎていたはずだがちゃんと見てはいなかったから見覚えがない。
「いらっしゃいませ!」

店内に入ると元気な、しかし低い声が聞こえてくる。

「こちらへどうぞ」
若いお兄さんに言われ席に案内された。担当のスタイリストが来るまで少し待っているように、とのことだ。

暇なので周囲を見渡してみる。証明は暖色、木製、茶色を基調とした店内だ。シャンプー台が黒く、黒いレザーの椅子と色が合わせてある。スタイリスト達は、カチッとした七三分け、オールバックに顎髭、ドレッドヘアー。
店内の雰囲気からスタイリストまで、まさで『ダンディ』という言葉がぴったりな床屋だった。


「髪型はどうされます?」
奥の部屋から声がする。声をかけてくれたのは20代中盤だろうか、優しそうなお兄さんだった。僕の担当のスタイリスト、安田(仮名)さんだ。

「・・・っと」

あれ、どんな髪型にしたいんだっけ?
問われてから気がついた。ここ10年間、自分の髪型の希望を人に伝えたことがない。おそらく高校生の頃、文化祭に合わせて金髪にしたのが最後だ。

「え・・っと」
答えあぐねる。

「好みがあれば細かく調整できますよ」
安田さんが爽やかな笑顔で尋ねてくれる。

しかし、続く言葉が出てこない。
『どんな髪型にしたいのか?』
それは、ここ数年考えたことすらない問だということに気がついた。


「これまでは、どういう髪型にしていたんですか?」
気を利かせて安田さんが質問を重ねてくれた。
困ったことに自分の髪型の名称が分からない。

「僕に似合いそうな髪型ってどんなんですかね?」
なんとか言葉を絞り出す。

「そうですね〜。希望をお伝えいただければ。それをお客様に合うようにしますよ。」

そう言われても、希望の髪型がないので何も言うことがない。
困った、身体が硬直していくのが分かる。予約を入れてから3日ほどあった。なんで今日まで何も考えてこなかったのか。


落ち着いて、同居人の髪型を思い出してみる。黒髪ベースに金のメッシュ、茶髪にパーマ、刈り上げてもいたっけ?たしかそんな感じだった。
店内を見渡してみる。ドレッドはちょっと勇気がいるよな…。オールバックはセットに時間がかかりそうで面倒だし…。いっそのこと思い切って坊主…?いや、それなら床屋に来る必要ないだろう。

安田さんと僕の間に沈黙が流れる。気まずさを感じる。希望の髪型なんてない。変に見えなければそれで良いのに。

「あの人みたいな感じにできますか?」
ふと目に入ったは2つ隣の席でカットされているお客さんのことを指差した。似合うかどうかはわからないがなんとなく素敵に見えたから。

「ソフトモヒカンですか〜。お客様はハチが張っているのでソフトモヒカンは難しいかもしれませんね。」

「あ、そうでしたか…。」

僕が絞り出した勇気は簡単に砕け散った。
特に希望するものがないのに希望を強要される感覚、そしてそれを否定される感覚。直近5年間で経験した中で最も居心地の悪い瞬間だった。

好きな髪型…?好きなこと…?

話は変わるが、たまに、進路相談を頼まれることがある。
「相談役がポーカーしている僕なんかで良いのか?」と思いつつも、極端な例を見ることは何かしら考える切っ掛けになるかもしれないと思い直し、引き受けることが多い。

その中でよく出てくる問が、「何をしたらいいかですかね?」というものだった。

「好きなことで、生きていく」
たしか、某有名Youtuberが発した言葉だったか。ここ10年くらい、生き方に関する大きなトレンドになっている。

僕自身、ポーカーという好きなことを仕事にしていて、この考え方・ライフスタイルには共感しているし、皆好きなことをして生きていけば良いのにとさえ思っていた。だから、「何をしたらいいか分からない」という問いについても共感できないことが多かった。

しかし、もし世界が、「好きなことで生きなければならない」「好きなことを職業として生きなければならない」のだとしたら、「何をしたらいいかわからない」という問はもっともなものだ。そしてそんな世界は、かなり残酷な世界ではないか。


好きな髪型も希望の髪型もないのに、無数の選択肢から好きな髪型を選び取らなければならない事態に直面し、僕はそう直感した。髪を切るだなんて些細なことでさえ大変なのだ、況や生業とすべきことの選択なんてそれ以上に悩ましいものだろう。

「いや、好きなことで生きなければならないとは言ってなくね?」
うん、それはもっともな反論だ。

本来、「好きなことで、生きていく」という言葉は、「嫌な仕事をそんなに頑張らなくてもいい」という我慢を強いられていた者たちへの福音であっただろう。その意味の範囲内に留まっていればなんとも素敵な言葉だ。しかし、いつの間にやら「好きなことを仕事にして生きなければならない」という呪詛へと変化し、人々の頭の中に刷り込まれているのではないか。僕が言いたいのはそういうことだ。

だって、表に出ている彼/彼女らは、いつもキラキラしていて楽しそう。そして、夢を語り、好きなことで生きていくことの素晴らしさをあちこちのメディアで説いているのだから。そう”ある”のが正しいかのように思えてくる。

将来、何をしたいのかわからず悩んだり自分を探しに出かける人がいるのだからあながち間違った推測でもない気がする。少なくとも自分の中ではそういう意味合いへの転化が起きていた。

そんな思い込みがあるとするとこの世界は非常に生きづらいものになってしまう。別に、好きなことで生きなくなっていいし、そもそも好きなものなんてなくても良いはずだ。

選択肢が無数にあって、どれが良いのか自分ではよくわからないのに、選択を迫られる。そして選んだ結果、起きることに関しては基本的に全責任を負わされる。つまりは、自由であること。それだけでも大変なことなのに、選択したものが「好きなこと」かどうかという基準で他人に良否を判断されるだなんてある種地獄である。

好きなことや、やりたいことがなくたって、悪いことなんて何一つない。
なりたい髪型がなくたって別に良いんだ。


終わり

そう、自らを納得させたところで散髪が終わった。
安田さんは気を遣ってくれたのか僕に話しかけてこなかった。妄想というのは、時に気まずい時間を乗り越えるための有用な現実逃避である。

どんな髪型になったのかと言えば、以前と同じだ。
スマートフォンから、自分が写っている画像を引っ張り出し安田さんに見せたからである。


お会計を済ませて帰路につく。
「ありがとうございました!」
店内から力強い声が聞こえてくる。
やはり、良い店だ。

帰宅し、扉を開けるとシェアハウスのメンバーがいた。ちょうど夕食を食べるところのようだった。
僕が散髪したことに誰も気が付かない。
無理もない、だっていつもと同じ髪型なのだから。

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