ミス・カーライルの猿

 ミス・カーライルが猿を連れてきた時、研究員一同は皆、顔を歪めて彼女を見た。
 その優美な細い手には長めの鎖が握られて、猿の首に嵌められた輪へと繋がっていた。
 彼女は扉を開き、ヒールで床を叩きながら、会議室の円卓を周り、ゆっくりと自分の席に向かって歩いてきただけだったが、緊張の余り、部屋の温度が一度ばかり冷めたかのような錯覚を皆は覚えていた。
 幾ら動物の生態を観測する研究所であっても、会議の席には動物を連れてくることは許されませんと何度諭されても、ミス・カーライルは承服しない。これが最初のことではなかった。
 小振りな猿は毛むくじゃらの頭を斜めに傾けて、歯をむき出しにし、皆の方を向いた。凶暴な鳴き声を上げる。その瞳には爛々とした光りが宿っていた。
 ミス・カーライルがこの猿をいつも連れ歩いているということは、研究所中の話題となっている。彼女の溺愛ぶりは甚だしく、なにかあるといつもこの猿の頭を撫でて、笑顔を向けているさまを皆はよく眼にするのだった。
 人間嫌いどころか生身の動物は嫌いだった筈の彼女がいかにしてこの猿を手に入れ、飼育するに到ったのか、研究所員の誰一人として知らなかった。
 着席したミス・カーライルの隣りに掛けていたミスター・ハンコックはとうとうしびれを切らし、
 「ミス・カーライル、このような席に動物を連れて来ないでください。迷惑している者もいるのですから」と声を掛けた。
 ハンコックは大柄な中年男である。研究員の中でも一際背丈が高かった。三十半ばというのにもう頭は禿げ上がっていた。
 カーライルは鎖を身に引き付けて、静かに猿の頭を愛撫していた。
 ミスター・ハンコックは無視されたかたちだ。
 彼は顔を赤くして、カーライルを睨み付けたが、一向に涼しい顔をしていた。
 「聞いておられるのですか、ミス・カーライル!」ハンコックは身を乗り出した。
 「まあまあ」少し離れた席に坐っていた小柄で大人しそうなミスター・ハノーヴァーが宥めた。「今のところ特に問題は起こっていませんし、許容してはどうでしょうか」
 「しかし、決まりは決まりです」ハンコックは鹿爪らしい顔で言う。「動物は檻の中に入れて管理し、職員と雖も出す時は許可証を申請しなければなりません。そして、ミス・カーライルは、そのような許可を得てはいません」
 「あなたは随分と堅苦しいんですね」ここでカーライルは初めて口を開いた。
 「誰かが言わなければなりません。私は皆の総意を代表して言わせて頂いているのです」 「ところでカーライルさん」ハノーヴァーは話を変えた。「その猿との馴れ初め……と言えば些か不穏当ではありますが、どちらで見付けられたんでしょうか。私の専門は爬虫類なので、存じ上げないことの方が多いのです。けれど、知る限りでは、こちらの研究所ではこういう種類の猿は置いていなかったはずですが……」
「またはぐらかすのでしょう」ハンコックは皮肉な笑みを浮かべた。
 「いえ、彼とは南米を旅行したときに、アマゾン川の支流で出会ったのです」
 あっさりとカーライルは答えた。
 「そう言えば去年、何ヶ月か掛けて南米を旅行されましたね。しかし、あの時から貴女が猿を飼い始めるまでに、まだ何日かのブランクがあったように記憶していますが」ミスター・ハノーヴァーの眼が思慮深そうに輝く。
 「そうです。現地で知り合った親切な人に、後から送って頂きました。もちろん、送料は負担しましたが」ミス・カーライルは澄まして答える。 
 猿がまた叫んで首を擡げ、ハンコックの方を見た。彼は少しひるんで退いた。
 「ともかく、この場所からその猿をどこかに移してください」
 「怯えているのですね、ミスター・ハンコック」カーライルは嘲った。つんとすまして、心持ち顎を持ち上げていた。鼻筋はとても通り、細められた眼に整えられた睫毛が目立った。唇は赤く紅を引かれ、ちょっと濡れたように見えた。長いブロンドの髪が椅子の端で溢れている。
 ハンコックの顔は更に歪んだが、会議の場を乱したくないと考えたためだろうか、そっぽを向いて押し黙った。
 「私も、確かに生身の獣を恐れていました。それがアマゾンに行く前後に、その価値観を見事に引っ繰りかえされたのです。それから、私は変わりました。動物、特に猿に対して、尽きせぬ愛を感じ始めるようになった訳です」熱心に指先で猿の唇を弄びながら、カーライルは言う。
いきなり立ち上がって、部屋の壁際に張られたスクリーンの前に設置されたプロジェクタへと歩いていった。そして、白衣の懐から取り出したUSBメモリを挿し込んだ。
 それに気付いた皆の一人が急いで部屋の電気を消す。
 何枚かの画像が投射された。それはまさしくアマゾン川流域の風景だった。舟から撮影されたものだった。植物には疎い皆は、それをただ見送っただけだったが、その中に件のカーライル寵愛の猿が顔を出したとき、なるほどと思った。
 高いマングローブの枝の間に、その猿はぬっと顔を出していた。ぎょろりとした目を輝かせてこちらの方を眺めている。怯えている様子は少しも見えなかった。恐らくその猿を撮影したカメラの持ち主こそがミス・カーライルなのだろう。写真は手ぶれもなく綺麗だった。 
 あの動物嫌いの女がこうも余裕を保って写真を撮れたことに皆驚きを禁じ得ないところだった。
 「なるほど、こうして捕獲した訳ですな」

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