見出し画像

どうする信長、天下人の体制をどうする?(大河ドラマ連動エッセイ)

 大河ドラマ「どうする家康」に連動して、織田信長のどうする?「どうする信長」を書いてみました(写真は近江八幡市HPより)。
 ドラマでは、1575(天正3)年5月21日の長篠設楽原の戦いが描かれていました。この戦いの信長のすごさは、前回の「どうする信長」でネタバレしてしまいましたので、今回は、戦いの後、官位で足利将軍と同じとなった信長が、足利政権に替わる新たな武家政権、天下人の政権の体制をどうするか?に焦点をあてます。まず、長篠の戦いの後の信長の状況をみてみましょう。
 
 1575年6月、朝廷から家臣に官位が与えられる。
   同6月、丹波(京都)の攻略を明智光秀に任す。
   同8月、越前(福井)を統治していた一向一揆を滅ぼす。柴田勝家に
      越前8郡を与える。
   同9月、摂津の荒木村重、播磨入りを命じ、国衆の人質をとる。
      毛利方の備前の宇喜多直家と対決姿勢をとる。
   同9月、前関白の近衛前久を九州に派遣し、大友、伊東、相良、島津
      と対毛利の関係構築を図る。
   同10月、大坂の石山本願寺と和睦する。
   同10月、土佐の長曾我部元親の子(信親)に信の字を与える。   
   同11月、権大納言、右近衛大将に任じられる。
   
同11月、嫡男信忠、武田方であった美濃岩村城を攻略。
   
同11月、信忠が秋田城介に任じられる。

 この権大納言、右近衛大将は、源頼朝が1189年に奥州藤原氏を滅ぼした後に得た官職であり、信長は、頼朝と並ぶ存在となった。信長は、紀州に落ち延びた将軍足利義昭の子を預かっており、一応、足利将軍家を守っている形となっていましたが、官職が将軍義昭(紀州在住)と同等、あるいはそれ以上となり、名実ともに新たな軍事政権を朝廷に認められた形となりました。つまり天下人になったといえます。では、どうする信長?ですが、どんな政権体制をつくるのでしょうか?
 天下人になったとはいえ、信長の支配地は、尾張、伊勢、美濃、近江、越前、若狭、丹後、山城、大和、摂津、河内、和泉、播磨という範囲で、日本全国からみれば、まだまだ限定されたものでした。そこで、天下人の実質たるべく、このあと、周囲の丹波、紀伊、加賀へと武力による平定を進めます。
 このときは、中国の毛利輝元、越後の上杉謙信とも良好な関係を維持していました。関東・東北については、北条が同盟者である徳川家との関係が良好でした。10月25日、奥州の伊達輝宗に宛てた書状では、「関東は自然と自分の意のままになるだろう」と書いています。11月28日、常陸の佐竹義重に宛てた書状で「武田攻めのときに、味方するとよい」と伝えています。同日、奥州の田村清顕、下野の小山秀政にも同様の書状を出しています。武田を滅ぼせば、その他は臣従すると見込んでいたのでしょう。上で書いたとおり、信長は四国、九州には外交を展開しておりました。全国支配を目指して、遠隔地の大名が将来、自分に従うように連絡を始めました。 

 朝廷公家寺社との関係では、足利政権とは異なる保護策を行いました。
信長は、権大納言、右近衛大将任官後、朝廷や公家寺社に対し、畿内で新たな領地を宛がいます。新たな経済的支援策でした。一方で、遠隔地にある彼らの領地(荘園)を没収したり、取り消しました。荘園制の終了を推進するもので、画期的な施策でした。
 
11月28日、家督を長男の信忠に譲り、岐阜城を信忠に任せます。織田家の家督と、天下人である自らを分ける考えだったのでしょうか。旧来の領国支配地(尾張美濃)と異なる統治を近江や畿内で行おうとしていたのかもしれません。1576(天正4)年1月、信長は、丹羽長秀に近江に安土城の普請を命じます。安土から京都は一日で到達でき、また、天皇の行幸、公家の来訪も想定してのことでした。

続いて、軍事動員体制の変化として、方面軍の形成が挙げられます。このときの重臣の支配地と担当を確認しましょう。
 まず、丹羽長秀は若狭一国を支配していました。寺社政策を担当し、安土城の普請も担っていました。
また、柴田勝家は越前8郡49万石を支配していました。
梁田広正は加賀2郡を支配し、加賀は切り取り次第扱いでした。
佐久間信盛は、近江、尾張に所領があり、岐阜の信忠付きとなっています。
滝川一益は北伊勢4郡を支配しています。
明智光秀は、近江坂本を支配のほか、北山城を担当、丹波攻略を始めたばかりです。
羽柴秀吉は、近江長浜3郡を支配しています。
原田直政は、南山城、大和、河内南部を担当していました。
重臣ではありませんが、荒木村重は摂津一国を支配し、播磨も担当していました。

 一番所領が多いのは柴田勝家です。北陸には目の前に加賀の一向一揆衆、そして、越後の上杉謙信がいます。岐阜城の信忠と佐久間信盛は、武田の備えです。しかし、美濃の武田は駆逐しており、武田担当はもっぱら、徳川家康単独で十分のようです。方面軍の形成で注目すべきは、信長が戦いで自ら出陣することは少なくなったことです。信長の軍略を見ることができないのは残念ですが、その後、嫡男信忠や重臣たちが自ら能力を発揮して、各方面を切り拓いていくことになります。
 また、信長の行政統治ですが、家臣の支配地(分国)では越前で1575年、一向一揆を倒した後、経営方針を示した国掟が制定されましたが、多くのところは領主家臣の裁量に任せていました。これは、足利政権の守護大名による領国統治の延長といえます。京都においては、足利将軍を追放した1573年7月、村井貞勝を所司代に任命しています。松井友閑、武井夕庵らの信長の行政官僚側近らと共に、京都の治安維持や朝廷・貴族・各寺社との交渉、御所の修復、使者の接待など、京都に関する行政の全てを任しています。大和における城の破却や羽柴秀吉領の検地など、一部地域で行われた施策もあります。

 足利将軍と並ぶ天下人になった信長ですが、中央政権の体制をどのようにつくっていくか、統治権の及ぶ地域の拡大が進んでいないため、まだまだ時間がかかる作業だったといえます。残念ながら、信長が本能寺の変で死亡したため、織田政権の完成を見ることはできませんでした。将軍になるのか、関白になるのか、また別のものになるのか、官僚機構はどのようなものになるのか。一つ言えることは、ワンマン体制の性格が強くあったことから、足利政権のような有力大名の集団体制(羽柴、柴田、滝川、丹羽など)はとらず、官僚機構を整備することが考えられました。その意味では、秀吉の五奉行制のようなものができる可能性があったと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?