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どうする信長、将軍の京への帰還を認める?(大河ドラマ連動エッセイ)

 大河ドラマ「どうする家康」に連動して、織田信長のどうする?「どうする信長」を書いてみました。好評をいただきありがとうございます。
 ドラマのほうは、1573(元亀3)年4月、愛知県(三河国)に攻め入った武田信玄軍が、本拠地の山梨に帰る、ということで、徳川家康や同盟者の織田信長がホっとする、という状況です。
 信長は同年7月、将軍足利義昭を京都から追放します(若江城、東大阪市に滞在)。同年9月、信長は福井(越前)の朝倉義景と滋賀(近江)北部の浅井長政を攻撃し、滅ぼしました。武田、将軍義昭、朝倉浅井と、三つの敵対勢力の軍事的対立が緩和されます。今回の織田信長のどうする?は、義昭の京都帰還を認める?認めない?です。

 信長は岐阜に帰った9月7日、中国地方を領有する毛利輝元に手紙を書きます。この手紙で、信長は、要旨以下の内容を伝えます。
○朝倉、浅井を倒した。加賀、能登(石川)は、信長の分国になる。上杉との関係は心配ない。
○今川氏真は、伊豆(北条側)からこちら(浜松)に移った。(徳川の駿河攻めが始まる)
近く上洛し、南方(足利義昭)のことに対応する。
※同日付けで二通目の手紙を発出しています(省略)。

 北陸や駿河方面の情報を伝えるとともに、毛利側が求めていた義昭との和解に応じる姿勢を示しています。このとき、羽柴秀吉も同日付で、毛利家に手紙を出しています。秀吉は資料を見る限り、1570(永禄13)年3月以降、毛利家との取次役になっていました(当時の秀吉は京都奉行の一人。朝倉浅井攻めの前)。
 義昭は同年7月、京都を追われて、河内若江城(三好義継の城、東大阪市)に退いた後、毛利輝元に手紙を書き、自分に味方するように求めます。輝元は、信長と対立をしたくはないので、信長に対し、義昭と和解し、京都に迎え入れることを求めます。信長は、これに応じて、義昭と信長側と毛利側との3者交渉が11月、堺で行われます。このとき、信長側の交渉者となったのが秀吉でした。秀吉は、上で述べたとおり、対毛利交渉役でしたが、ここでは、将軍の京都帰還交渉を受け持ちます。
 
 そこで、義昭の京都帰還を認めるか、認めないか、今回のどうする?ですが、3者交渉は、義昭が信長に人質の提供を求めたため、物別れになります。11月9日、義昭は海路、紀州へ向かいます。秀吉は交渉上手ではありますが、失敗することもあります。人質の要求は、予想されたもので、信長はもともと帰還に応じる考えはなかったかもしれません。信長は義昭のことを「天下を捨ててしまったので、私が上洛して取り鎮めている」と表現しています(同年7月13日、毛利輝元宛書状)。帰還すれば、それはこれまでの足利政権(幕府)の継続であり、これまで同様、将軍義昭と信長の双頭政治となります。果たして、信長はそれを望んでいたのでしょうか。
 交渉決裂時、秀吉は、「入洛のことはもはや問題にならないので、どこにでも行ったらよかろう」と義昭に述べています。最後通牒のようで、長期交渉や、あらためての断続交渉の考えがなかった可能性があります。義昭が堺に来る前に滞在していた若江城は11月16日、信長軍によって攻撃され、落城、当主三好義継は自害しています。
 もとより、信長は若江城を攻めるつもりで、秀吉は、義昭に対して「若江には戻れない」と通告していたふしがあります。毛利側の交渉者である僧の安国寺恵瓊は、「西国に下向されると迷惑である旨を告げた」とされます。若江に戻れず、毛利領にも行けない義昭は、紀州へ移ったというわけです。
 
 翌1574(天正2)年3月8日、信長は、従三位参議に叙されます。同月28日、奈良の東大寺正倉院保管の香木の蘭奢待(らんじゃたい)を天皇の許可を得て切り取ります。義昭の位は従三位でしたので、位で信長は将軍を同列になり、朝政に参議する地位を得ました(官は義昭が大納言で参議より上)。また、信長の前に蘭奢待を切ったのは8代将軍足利義政で、ここでは、足利政権の後継たる地位を示したと言えるでしょう。こうした将軍並みの動きをみると、もとより、義昭に京へ還ってもらう気持ちがなかったのかもしれません。
 
 義昭の京都帰還交渉は、①義昭と毛利・三好義継の関係を断つ。②毛利家との関係を強化する、③三好義継を討つ、というのが本当の目的だったかもしれません。毛利と協力し、義昭を紀州へ退かせる、これが秀吉の任務であったかもしれません。安国寺恵瓊は12月、「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と手紙に書いており、秀吉の能力の高さを評価しています。
 今回のどうする?は、表面上の言動とは別に、実際は、謀略の可能性があることを示しました。言っていることと本心は違う場合があります。
 
 
信長は、義昭の命をとりませんでした。その後、義昭は毛利に庇護を求め、毛利と信長は全面戦争となります。これは信長の計算外だったかもしれません。毛利攻めの援軍であった明智光秀軍に謀反を起こされたことも、計算外でした。現在からみて、結局、信長は、義昭の処遇をどのようにすればよかったのでしょうか。やはり、どうする信長、ですね。皆さんが信長なら、どうされますしょうか?


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