見出し画像

どうする関ケ原、西軍の挙兵と会津攻め中止(大河ドラマ連動エッセイ)

 大河ドラマ「どうする家康」に連動して、「どうする関ヶ原」を書いてみました。今回は、大坂城の三奉行による徳川家康打倒の挙兵、徳川家康らの会津攻め(上杉景勝征伐)中止、を描きたいと思います。
 家康による会津攻め、石田三成の挙兵、細川ガラシャの死など前回のお話は、以下をクリックしてくださいね。

(三成の挙兵→西軍の挙兵)
  1600(慶長5)年7月10日ころ、近江佐和山城で、石田三成と大谷吉継(奉行並み、敦賀5万石)が、反徳川家康(五大老筆頭)で挙兵しました。佐和山には、毛利家の外交担当の安国寺恵瓊(伊予和気郡6万石)もいました。恵瓊は、家康の会津攻め(上杉景勝(会津・庄内120万石、五大老の一人)討伐)に参軍するということでしたが、佐和山で、三成らとともに挙兵することとなりました。三成挙兵後、恵瓊は大坂に戻りました。
 三成は1599年閏3月の失脚以来、恵瓊、吉継と直接言葉を交わす機会がありませんでした。恵瓊としては、いわゆる西軍(前田玄以、増田長盛、長束正家ら三奉行と毛利輝元(安芸広島120万石、五大老の一人)など)の挙兵について、三成と入念な打ち合わせが必要だったと考えられます。
 三成挙兵の情報が、近畿周辺の大名、大坂城の三奉行、前田玄以(丹丹波亀山5万石)、増田長盛(大和郡山20万石)、長束正家(近江水口6万石)に伝わったのは12日と思われます。12日付けで増田長盛や多くの大名が、三成挙兵を江戸にいた家康に手紙で伝えています。以前は、「増田はこのとき、まだ三成と一味でなかった」と解釈されていましたが、
現在は、「多くの大名が手紙を送る中で、奉行が送らないのはおかしい。不審を抱かせないため、手紙を出した。できるだけ家康の西上を遅らせる必要があった」と解釈されています。

 12日、三奉行は、広島に帰国中の毛利輝元に対して、至急、大坂へ来るように手紙を出しました。この手紙で、「詳細は、安国寺恵瓊が述べます」と書いています。重要なことは、三奉行の使者の口頭説明ではなく、恵瓊が述べる(実際には恵瓊の使者)というのですから、三奉行と恵瓊(三成・吉継)が一味であったことがうかがえます。
 14日、三奉行は、大阪にいる大名の妻子を大坂城に収容を始めます。
 同日、安国寺恵瓊の使者が広島の輝元へ到着します。
 14日、毛利家重臣の吉川広家(出雲富田14万石)は会津攻めで東征の途中、大坂で、安国寺恵瓊と会い、輝元と三成が挙兵する計画を知らされ、大反対します。広家は、家康に同行し、関東にいる黒田長政(豊前中津12万石)と、その父、豊前中津にいる黒田如水に「恵瓊の連絡で大坂にいる。輝元は何も知らないことである」との手紙を送ります。
 吉川広家は、黒田長政を通じて、家康に内通をしています。
 15日、輝元は、海路、大坂へ向けて広島を出発します。同時に、肥後の加藤清正(熊本24万石、母は、秀吉の母と従妹)に「速やかに大坂へ上る」よう求める手紙を送ります。
 結果から言えば、加藤清正は家康と婚姻を結んでいたこと、家康側である豊前の黒田如水と連絡を取り合い、輝元の要請に従うことはありませんでした。
 15日、大坂の島津義弘(薩摩鹿児島60万石領主の島津忠恒の実父)は、上杉景勝に対して、「毛利輝元、宇喜多秀家(備前岡山57万石、五大老の一人)、三奉行、小西行長(肥後宇土20万石)、大谷吉継、石田三成は、あなたと連携することに決めました。私も同様です」という内容の手紙を出します。
 ここで、いわゆる反家康の中核メンバーが明らかになります。
 17日、毛利家の毛利秀元(周防山口17万石、輝元の元養子)が、家康の留守居を追い出し、大坂城西の丸を占拠します。
 17日、三奉行が、家康の秀吉の遺命の違反行為を列挙した「内府ちがいの条々」文書を作り、全国の大名に送ります。反家康のいわゆる西軍が正式に成立した、といえます(以後、家康軍は東軍と呼びます)。
 家康の違反行為とは、
・奉行二人を解任したこと
・前田利長(加賀越中110万石、五大老の一人)から人質を取ったこと
・上杉景勝は責める理由がないのに討伐しようとしていること
・領地宛がいを独占し、功績のない者に領地を宛がったこと(細川忠興(丹後宮津・豊後杵築18万石)や森忠政(信濃海津13万石)を指す)
・伏見城の秀吉が定めた城番を追い出し、徳川の兵を入れたこと
・勝手に大名や武将と誓紙を交わしたこと
・北政所(秀吉の正室)の住まい(大坂城西の丸)に住んでいること
・大坂城西の丸に天守閣を建てたこと
・大名の人質を勝手に帰国させたこと
・大名と勝手に婚姻したこと
・大名たちを扇動し、徒党を結ばさせたこと(七将襲撃事件)
・合議制で行う政治を専断で行ったこと
などです。
 この西軍の中心人物は、上の島津義弘の上杉宛手紙にあるように、
毛利輝元、宇喜多秀家、三奉行、小西行長、大谷吉継、石田三成です。そして安国寺恵瓊が加わります。この9人のうち、誰が首謀者かというと、以前は石田三成とされていましたが、三成は佐和山に謹慎しており、三成が、いくら手紙を書いて説得したからとしても、三奉行や恵瓊(輝元)を動かすのは難しいと考えられます。三成は恵瓊と直接会って協議する機会が7月上旬までありませんでした。重要な三奉行とは、挙兵前に会うことはありませんでした。
 輝元を動かすには、恵瓊の協力が必要であり、大軍の大坂入りには、奉行の要請が必要です。輝元の素早い広島出発からみて、「輝元、恵瓊、三奉行」は、早い段階から計画を練っていたと思われます。石田三成がこの「輝元、恵瓊、三奉行」中心グループに早い段階から一味であったのか、逆に吉継に説得されて加わったのか、はよくわかりません。
 ちなみに、この7月17日の三奉行ら西軍の挙兵を、家康が知ったのは同月29日か28日あたりとみられます。

(戦略的弱点の対応に追われる西軍)
 
7月18日、石田三成が京都の豊国神社(秀吉を祀る)に軍勢を率いて参拝します。
 
18日、西軍(宇喜多秀家、小早川秀秋(筑前30万石、秀吉の元養子、北政所の甥、権中納言)、小西行長ら)は、家康の家臣鳥居元忠(下総矢作4万石)がこもる伏見城へ攻撃を開始します。
 19日、大坂に到着した毛利輝元が、恵瓊と三奉行の要請を受け、家康討伐軍の盟主になることを承諾し、大坂城西の丸に入ります。
 19日、江戸に、12日付けの三成挙兵を知らせる手紙が到着します。
 19日、徳川秀忠(家康の嫡男)軍が、会津へ向けて、江戸を出発します。 
 21日、家康軍が、会津へ向けて出発します。
 21日、会津攻めに参軍するため、下野佐野にいた真田昌幸(信濃上田4万石)の陣中に三成からの手紙が届き、17日の三奉行の「内府違いの条々」の内容を伝えます。昌幸と次男信繁は、西軍につくことにし、信濃上田に帰ります。長男信幸(上野沼田3万石)は、東軍につくことにし、宇都宮に向かいます。
 ちなみに、信幸は三奉行の挙兵を知っていたのですが、宇都宮で、徳川秀忠に話した形跡がないということです。父昌幸が、信濃上田へ帰る道をふさがれないように、時間稼ぎをしたのでしょう。

 21日、宇都宮に到着した細川忠興が、領国の丹後と豊後に手紙を送ります。在豊後の家臣については、豊前の黒田如水の城に入ることを命じます。忠興と如水は、豊後で同年4月、会見し(如水が会いに行った)、西軍の挙兵について話し合い、対応策を協議していたようです。大坂屋敷にいた如水夫人と長政夫人は、7月10日以前に、大坂を脱出しており、如水の情報分析能力が非常に高いことがわかります。
 22日、徳川秀忠が、宇都宮城に到着します。
 22日、細川藤孝の丹後宮津城を、西軍が包囲します。
 
 西軍の本拠地は大坂です。家康軍が東軍が西上してくる場合、どこで迎え撃つかがカギになります。とりあえず、美濃岐阜の織田秀信(13万石、権中納言)は西軍ですが、上のように丹後、伊勢、加賀の前田利長などは、無視するわけにいかず、攻略あるいは防戦が必要でした。また、阿波徳島の蜂須賀家政(18万石)は、嫡男至鎮(よししげ)が会津攻めに従い、関東にいましたが、家政本人は大坂にいたため、軟禁状態になりました。ただ西軍としては阿波から、大坂が海路封鎖、攻撃される可能性もありましたので、阿波鎮圧の派兵も必要でした。このように、家康軍との決戦を行う前に、背後や側面の憂いを断たなければならないという戦略的弱点への対応が急務になっていました。

(家康、会津攻めの中止、東西対応の構え)
 7月23日、家康が、出羽山形の最上義光(20万石)に、三成の挙兵を伝え、会津攻め、すなわち上杉討伐中止の手紙を送ります。
 24日、伊達政宗(陸奥岩出山57万石)軍が、上杉領の陸奥白石城を攻略します。
 25日、家康など上杉討伐遠征軍が下野小山で会議を開きます。この時点で、家康たちは、石田・大谷の挙兵は知っていましたが、輝元や三奉行が加わっていることをしりませんでした。会議では、①上杉討伐を中止すること、②石田の挙兵への対応として、福島正則ら豊臣恩顧の大名らがを尾張清洲(福島居城)まで西上させること、③東海道に城を持つ大名は、居城を徳川家に差し出すこと、が決まりました。家康重臣の本多忠勝(上総大滝0万石)と井伊直政(上野館林12万石)が、目付として西上軍と行動をともにします。
 ※尾張まで西上する大名は、福島正則(尾張清洲25万石)、田中吉政(岡崎7万石)、池田輝政(三河吉田15万石、家康の婿)、堀尾忠氏(浜松12万石)、山内一豊(掛川6万石)、中村一栄(駿府14万石)、浅野幸長(甲斐15万石)、京極高知(信濃飯田10万石)、細川忠興、筒井定次(伊賀上野20万石)、生駒一正(讃岐高松15万石)、蜂須賀至鎮、加藤嘉明(伊予正木6万石)、藤堂高虎(伊予板島7万石)、黒田長政、寺沢広高(肥前唐津8万石)、などでした。

 家康はしばらく小山に留まります。上杉の備えは、宇都宮で徳川秀忠、結城秀康(下野結城10万石)、蒲生秀行(宇都宮18万石、家康の婿)がつくことになります。
 小山での会議では、中村一栄の駿府城、山内一豊の掛川城、堀尾忠氏の浜松城、池田輝政の吉田城、田中吉政の岡崎城などには徳川家家臣が入ることになりました。
 
 家康の決断の妙は、会津攻め、上杉討伐をやめたことです。これで、三成軍への対応として、軍隊の一部(豊臣恩顧の大名ら約4万)を西上させることができました。ただし、上杉軍が南下してくる可能性がありますので、宇都宮に、徳川秀忠を大将に約5万の兵を置きました。もし、上杉軍の南下がなければ、秀忠軍は、上野、信濃、美濃と中山道を通り、西上する予定です。その場合、家康本軍は、東海道を西上するわけです。家康側、つまり東軍の戦略範囲は、下野那須から尾張清洲までとなりました。三成軍(2~3万と推計)は、豊臣恩顧大名軍で、上杉軍(2~3万と推計、伊達、最上対応に兵を割かなければなりません)は、宇都宮の秀忠軍で、対応が可能な状態でした。つまり、東西対応の構えを取ることができました。家康本軍は、基本的に自由に動ける、つまり機動性を確保しています。ただし、上杉と伊達、最上が連携した場合、宇都宮の守りは弱くなります。家康本軍の加勢が必要になります。このため、家康は動くことはできない状態です。
 
(東軍に西軍挙兵の情報伝わる、家康の勧誘工作)
 7月27日、西軍、細川藤孝(忠興の父)の居城丹後宮津城へ攻撃を開始します。
 27日、石田三成が奉行に復帰し、大老の宇喜多秀家の手紙に副状を出しています。
 29日までに、家康は、三奉行(西軍)の挙兵を知ります。豊臣政権における賊軍となったわけであり、家康は大きな衝撃を受けたと思われます。既に西上している黒田長政宛に、三奉行挙兵の内容の手紙を書き、事後策を知らせます。基本的には、福島正則らを東軍に引きとどめるように、ということであったでしょう。
 
三奉行(西軍)の挙兵は、家康軍が豊臣政権で、反乱軍となってしまったこと、秀頼や生母淀を相手方に取られたこと、伏見城の鳥居元忠が襲われていること、尾張へ向かった福島正則など豊臣恩顧の大名が西軍につく可能性があること、その他全国の諸大名に西軍につくものが現れる可能性があること、西軍と上杉軍に挟み撃ちにされる可能性があること、などの懸念が生じます。
 家康は大名に対しては、領地宛がいの約束をする手紙を送るとともに、西軍の挙兵を知った上杉軍の南下に備えます。
 
30日、家康は、小山から宇都宮へ北上します。秀忠、結城秀康らと事後策について打合せを行ったとみられます。
 8月1日、伏見城が陥落します。このあと、西軍は東に移動が可能になります。
 1日、豊前中津の黒田如水は、吉川広家に手紙を送り、家康側に内応することを勧めます。
 2日、毛利輝元、北政所が、京都の豊国社に参拝します。
 2日、大谷吉継は、加賀の前田利長の南下に備え、北陸へ向かいます。
 3日、前田利長軍が、加賀大聖寺城を攻略します。
  前田利長はその後、金沢城の防衛のため、金沢に戻ります。弟利政(能登10万石)が西軍についたため、その後、金沢を動きませんでした。
 4日、家康は宇都宮を発ち、江戸へ向かいます。
 4日、家康は、福島正則に尾張の領地を宛がう手紙を送ります。
 5日、家康は、江戸に到着します。家康はこの後、9月1日まで江戸を動きません。東西(上杉軍と西軍)の情報を確認しつつ、諸大名に手紙を書き、内応を求めます。
  
 5日、石田三成は、大坂から居城近江佐和山城に戻ります。福島正則の居城清洲城留守居に投降を求めますが、拒否されます。
 5日、毛利秀元を筆頭に毛利軍、長束正家軍は伊勢へ向かいます。
 大坂城には、毛利輝元と奉行の前田玄以、増田長盛が残ります。
 8日、家康は、毛利家の吉川広家の「輝元に反意はない」との手紙を黒田長政経由で受け取ります。家康は、「輝元が事情を知らないとのことで、満足しました」との返書を長政に送ります。「大坂城に入っている輝元が事情を知らない」とは、ずいぶん呑気な話ですが、「広家は、東軍に内通しろ、輝元には、軍を動かせるな。そうすれば、事情を知らないことにして許してやる」という意味です。
 毛利軍ですが、毛利輝元は大坂城にいて、毛利秀元と吉川広家軍が兵を東に進めています。吉川広家は独自の情報工作を行っており、西軍の情報は、黒田長政経由で、家康にある程度漏れていたものと思われます(つづく)。


 






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?